先週のカウンセリングで、「祈り」について話した。私が、「祈り」についてはじめて考えたのはいつだろう?カウンセリングの場で聞かれたときは、自分が会社を辞めた時、母親が毎日会社帰りに神社で祈っていたと聞かされたことを挙げたが、よくよく考えると、それ以前からのものであることがわかった。
私が「結局、人は祈ることしかできない」と感じたのは、東日本大震災から2年ほどが経ったある日、被災地の海を仙台の友人と電車の窓越しに見ていた時だ。彼女は、友人をその海で亡くしていた。しかし、お参りにもいけていないと、静かに語っていた。晴れたその日、電車のなかも、その光景も、とても静かだった。海は、晴れた空の下どこまでも広がっていた。そんな海が2年前に荒れ狂い、彼女の友人はもがき苦しんだのか。そして、おそらくは彼女自身も。しかし、海は皮肉なほど穏やかな顔をしていた。そのとき、わたしは悟った。最後に人ができるのは、沈黙して耳を傾けることだけであり、人は結局、祈ることしかできないのだと。
今日はお盆だ。今までお盆を感じたことはなかったが、今年は不思議なほど、霊、あるいは魂の存在を感じる。霊が充満している。それがとても暖かい。心が弱ると、死に近づくようだ。10年前に精神の危機が訪れたときも、よくひとりで縁もゆかりもないお墓に通っていたものだ。しかし、死は、対立するものというよりもむしろ、自分の隣にあるものにすぎない。
礼文島でも、毎日海を見ていた。晴れた日も、荒れ狂う日も。あのとき私は、静かに呼吸をしながら、ずっとなにかを待っていた。