午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

いいね中毒

ネットニュースの記事で、最近の若者には「いい子症候群」が蔓延し、過剰に空気を読み合い、目立つことや失敗することを異常に恐れるという記事を読んだ。おそらく、わたし自身もそうした若者のひとりだ。では、なぜそうなるのか?を考えてみた。そして、その原因がSNSの「いいね」機能にあるのではないかと思った。

 

わたし自身、異様に「いいね」に支配されていることに気づいた。以前、とあるブログの記事の出来がよかったので、noteに転載してみた。すると、5人の「いいね」がついた。それが、予想以上に快感だった。自分が認められたような気がした。そして、この快感があるものに似ていることに気がついた。それは、一時期一瞬だけ手を出した仮想通貨の値上がり時に感じたギャンブル的な快感である。

 

改めて見渡してみると、noteだけではなく、ツイッターなどはもちろん、仕事用であるはずのteamsやSlackにさえいいね機能は実装されている。いいねは当たり前すぎて、意識に上っていなかった。だから、わたしは自分がいいね中毒になっていることに気がつかなかった。

 

いいねは、自傷行為である。なぜなら、自分ではない他人が望む偽りの自己を提示して、マゾヒズム的な快感を得るからである。超自我がわたしに鞭打つメカニズムは、「いいね」とその反対の無関心という飴と鞭である。わたしは常に「いいね」によって快感を得て、自らの存在を確認しなければならないほど自分の足場がない。「いいね」が得られないことに耐えられないということに気がついた。「いいね」が得られなければ、存在論的不安に突き落とされる。これでは、他人の目を気にするのは当たり前ではないかと思った。かといって、「いいね」をたくさん得られるためには自分を犠牲にしなければならず、自分自身は空虚になっていくばかりである。

 

これを抜け出すには、「いいね」がドラッグであることを認識したうえで、「いいね」が自分自身の価値とはまったく関係のないこと、「いいね」と距離を置くこと、「いいね」を得られない状態がふつうなんだとなれることである。