午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

憂き世

30歳になった。恋人と、リッツ・カールトンでイタリアンを楽しんだ。ホテルの玄関を開けた瞬間、別世界が現れた。大英帝国全盛期のヴィクトリア朝時代を思い出させるような家具が私たちを迎えてくれた。そこで、20歳のときに行ったヨーロッパ旅行の記憶が蘇った。

 

10年前、わたしは人生に迷い、ブリュッセルを拠点にヨーロッパをまわった。ロンドンにも数週間滞在した。あてもなくロンドンの公園や美術館をフラフラするなかで、ナショナル・ギャラリーを気に入って、毎日通った。ロマン主義の画家、ウィリアム・ターナーとジョン・コンスタブルに惚れ込んで、飽きもせずに眺めていた。ターナーが描く海と日没が好きだった。暗さのなかに秘められた明るさ。それらの絵から感じ取るのは、ここではないどこかへの密かな憧れ、憧憬だ。

 

そんなことはすっかり忘れていたが、リッツ・カールトンの建物に飾られているの油画がそれらのイギリスロマン主義絵画に似ていたので、思い出したのだ。20代の最後に思いがけない場所でロマン主義の絵画に再び出会ったことは、意味のあることのように思えた。わたしの20代は、ロマン主義に始まり、ロマン主義で終わったことを理解した。そしてそれは、30代になっても続くように思われた。

 

ずっと、この世の中になんとか適応しようともがいていた。自分に負荷をかけ、自分の形を無理やり変形して、社会に合わせようとしていた。10年やってみたが、その試みはうまくいかなかった。ならばいっそのこと、やめてしまおうと思った。わたしがワイングラス片手に憂き世を軽蔑したところで、別に誰も困らない。無理やり憂き世を愛する必要はない。

 

リッツ・カールトンで優雅な時間を過ごしたことで、自分はまともであると理解した。狂っているのはわたしではなく、生産の役に立つもの以外を排除し、生産性を常に追い求めることで時間をすり潰す産業社会という名の憂き世の方なのだと。同時に、そんな産業社会のど真ん中に、リッツ・カールトンのような隠れる場所があることは希望のように思えた。やはり、芸術は、わたしの居場所だった。そしてそれを恋人と共有できるのがとても嬉しい。

 

産業社会は相変わらずストレスの塊だが、そのなかで生きるしかない以上、時間泥棒を軽蔑しながらそこで生きていくしかない。憂き世で生きているからといって、それをまるごと愛する必要などどこにもない。わたしにはわたしの生き方がある。リッツ・カールトンロマン主義の絵画との再会はわたしにそれを思い出させてくれた。余裕を愛する。それが最高の生き方のようにわたしには思えた。