午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

掟の前で

2023年がはじまって、23日が経とうとしている。2023年は、沈み込んだ2022年とは異なって、上昇していく年になる……はずだった。しかし、早くも、意気消沈してしまっている。

 

博論がうまくいかないとか、そういう個別のものではもはやない。フランツ・カフカの『掟の前で』という短い文章が無料で読めたので読んでみたが、まさにこのような心境だ。

 

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社会は、わたしに『門』を閉ざしている。肝心なところで、わたしはいつも止められてしまう。お前は、健康ではないのだと。わたしは、少しでもうまくいかないことがあると、このような深い絶望に突き落とされる。

 

家の前の町工場から、プレス音が聞こえるが、わたしの身体=心は、このような労働が奏でる機械的なリズムとメロディーに耐えることができないようだ。そして、どれだけ労力を払っても、結局は、過重労働によって篩い落とされる。多くの人が「ホワイト」だと考える1日8時間の「規則的な」労働、わたしはこれに耐えられない。体力がないとかそういう話ではない。自分の移りゆく気まぐれな気持ちを強制(矯正)することはどうやら不可能のようだし、それにたいする強烈な拒否感を捨てきれない。大学教授とて、その労働からはまったく逃れられないようだ。

 

やりたいことを、気分が乗ってきたら、やる。これをわたしは身体的なレベルでの基本原則にしたいのに、時計に管理された産業社会は、(わたしにとっては)あり得ないような速さで、規則的に動いていく。規則的な労働に、根本的に向いていない人間もいる。しかし、そのような人間が、健康で文化的な生活を維持するレベルで、因襲的な生活を維持して稼ぐことは、わたしにはとても難しいように思えるし、そのようなことを理解しない人たち、「義務」を当然だとする輩に迫害される。しかしわたしからしたら、てんでその「義務」とやらの義務性、正当性の根拠が理解不能である。どうしたら、そんなに無邪気に信じられるのか。わたしには理解できない。きっと、ある種の人間は、「門」について、まったくといっていいほどなにも考えないのだろう。ちょうどわたしが、両足があることで、片足がなかったら登ることに難儀するであろう階段の存在に、なんら疑問を覚えないように。

 

ただひとつ、今のところ、もし自分に少しの慰めを与えてくれるものがあるとすれば、それは社会学なのかもしれない。社会学は、今の「社会」が相対的なものでしかないことを、徹底的に教えてくれる。もっとも、それを知ったからといって、どうこうできるものでもないという、ある種の冷たい事実も一緒に教えてくれるのだが(それに、金にならない)。

 

坂口安吾の、「偉大なる落伍者」になるという決意をもじれば、「気楽なる隠遁者」にでもなればよいのだろうか。それとも、もう少し彼に寄せて、「偉大なる逸脱者」にでもなろうか。社会からの退却は、そのうち、より大きなものへのコミットメントへとつながっていくのだろうか。とにかく、わたしの身体、ものの感じ方、微妙な情緒を、大味で不感症的な社会へと明け渡したくはないのだ。近代社会は時間どろぼう、時間の苛烈な収奪者である。わたしがそう考えている限り、ある種の『門』は、永遠に閉ざされたままであろう(しかし、別に門の内側に入らないという選択肢もなくはないのだ)。