午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

影の力

最近、臨床心理士の先生とのセッションのなかで、ユングの「影」の概念にハマっている。ユングのいう影とは、自己の一部で、「生きられなかった自分」「自分の認められない部分」のことを指すらしい。河合隼雄先生の『影の現象学』という本では、影には集合的なものと個人的なものがあるという区別がなされている。

 

この影について、いろいろと考えたが、ユングのいう集合的な(普遍的な)影と個人的な影のあいだあたりに、現代社会の影というものもまたあると思った。それは、資本主義の影であり、こういう言い方はあまり好きではないが、いわゆる「新自由主義」の影だ。

 

資本主義の精神、すなわち勤勉であれ、自立しろ、貧困は悪である、時は金なり、そういう思考はわたしたち個人の隅々まで当たり前のようにインストールされている。そして、資本主義の精神は人間の身体や心の弱さを認めない。そういう影の部分、残余カテゴリーは、ビスマルク以来、福祉の領域に閉じ込めてしまった。かつては、その影の亡霊が社会主義共産主義を叫ぶ声として社会の主流部分に何度となく挑戦を仕掛けたが、今では社会主義国家の事実上の崩壊とともに、消えてしまった。いまや、主は影の挑戦を受けることもなく、影を認識することもない。

 

「資本主義は、健常者であることが前提とされているんだよね」。わたしが大学生だったころ、障害を持つ弟の姉である同級生がつぶやいた言葉だ。その前提が満たされない人は、社会の影であることを押し付けられる。そして、社会が脱工業化し、ITに代表されるような高度な能力を要求するようになって、また影も深まり、障害の範囲も拡大していったように思う。

 

「老い」、「死」、「孤独」、「役に立たなさ」、「意味の無さ」もまた、現代社会の影だ。それが嫌だから、人々は脅迫神経症的にジムに通う。金を稼ごうとする。そうした影は、ある一部分のひとに(不当なほどに)押し付けられたり、あるいは個々人にあまねく広くインストールされている。そうしたものたちから目をそむければそむけるほど、影は大きくなって個人を内側から破壊していく。それは、影を見ない報いだ。影は、生きられなかった自分、あるいはあり得たはずの社会の別の可能性だ。社会のレベルでも、影を無視するほど、社会も壊れていくだろう。というか、もうすでに壊れていると思う。

 

どうすればよいか?わたしは、それの解決策としては、現実を直視するしかないと思っている。影は、見方を変えれば、次への可能性だ。影が訴えていることを聴いてほしい。そうしないと、本当に社会は終わってしまう。もう、この社会が続かないことは本当はみんな気づいていると思う。もう、高度経済成長時代の過去の遺産は捨てて、新しい社会を作っていかないと。