午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

リベラルの自己矛盾

私にとって衝撃的な事件が起った。

あいちトリエンナーレにおける『表現の不自由展』の中止がそれである。

 

この騒動があった2日間、たまたま付近でアルバイトをしていた。会場を右翼の街宣車が取り巻き、その後すぐに展示が中止になり、翌日近くの公園で小規模な抗議集会が開かれているさまを目撃した。

 

こんなことが許されてたまるか、市民はもっと怒ってもいい、そう思った。ストレスのあまり顔の半分が神経痛で動かなくなった。しかし一方で、その感情を彼ら右翼の街宣車で展示を罵倒した人々と共有することは永遠にないだろうとも思った。

 

なぜなら、本当に普遍的な理念など存在しないからである。いくら論理的に普遍性を謳っていても、である。私の思想的立場だって、所詮私の置かれた経済状況やおとなしい性格に起因するものであるにすぎない。

 

結局、リベラルと言われる人たちが弱いのは、自分たちの主張が内容において矛盾しているからである。たとえば「すべての人々に寛容であれ」という言明は、外国人や弱者を排斥する人々に対しても寛容であることを要求する。しかしそれは自らの存在自体を脅かすことになる。トランプに対するオバマやヒラリーの歯切れの悪さがそれを例証している。これはカール・ポパーが「寛容性のパラドックス」として定式化しているものであると思う。

 

その点、右翼の方が主張は一貫している。「外国人を排斥せよ」という命題と、日本人である自分とはまったく矛盾しない。

 

私の見るところ、結局人々における「右」とか「左」とかいう思想は、いくら普遍性を装っていても、自らの経済的立場や人間的な性格にとって一番有利になる「合理的選択」の結果に過ぎないと思う。普遍的にみえる「議論」ですら、それを主張する人は議論が得意な人、つまり言語能力が高かったり、明文化された知識などの文化的資源を持つ人々にとって極めて有利である。リベラルの人は、その隠された暴力性に自覚的になるべきではないだろうか。そういう意味で、結局政治思想とはイデオロギーにすぎず、やはりマルクスがいうように階級闘争なのだと思う。その根源は、生得的な知能や肉体の差に帰せられると私は考えている。

 

また、田舎に右が多くて都会に左が多いのは、何も田舎の人がバカだからではまったくない。リベラルな弁護士というのはしっくりくるけれども、リベラルな農家、というのはあまり聞いたことがないだろう。社会学的にいえば、都市は機能分化が進んでいる。多様性は都市でしか成り立たないのだ。田舎ではゲイのライターが食っていくことは難しいだろう(たとえネットで食べていくことはできても、心安らぐ仲間を近所で見つけるのは難しいだろう)。対して、田舎では集団性に頼った方が経済も政治もうまくいくような構造がある。シリコンバレーのIT企業はイノベーションのために多様性を必要とするが、伝統的農業に必要なのは多様性よりも同質性であろう。

 

では、そんな価値観の神々が争うような状況は、どうすれば解決できるのだろうか?私は、結局は技術に頼るしかないと思う。これを使い古されたテクノクラシーであると批判する人もいるだろう。しかし、今私たちが当たり前のように享受している選挙制度や法律、市場、国家などの非人格的制度は、自動車や飛行機のような技術的な発明である。

 

つまり、私たちのような社会科学に関わる人間は、非寛容な人の存在が良いか悪いかを議論するのとは別に、結果として寛容な社会を実現するような制度を設計することに専念するべきであると思う。

 

それがどれだけ難しいことなのかはよくわかっている。しかし、それが私(たち)にできる数少ないことであるように思える。実際、メルカリは悪質なユーザーを排除するような仕組みを作り上げている。そういう点において発明のために自由、あるいは自由を担保する資本主義市場経済がベターであると思う。レッセフェールな市場主義はやはり生得差から来る格差を生み出すために、それを是正し平等を担保する仕組みも同時に必要であるのは言うまでもないが。