午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

ルサンチマンと激しい怒り

「激しい怒り」というタイトルとは、このブログの雰囲気にあまりなじまないものであるように思う。しかし、つい先ほど、わたしは積年の激しい怒りを内に秘めているということを自覚した。

 

きっかけは、わたし自身が、いつからかずっとルサンチマンを抱えていることを自覚したことだ。それまでも、薄々気が付いてはいたのだが、見ないふりをしていた。カッコ悪いからである。ルサンチマンとはニーチェの言葉で、Wikipediaによれば(別に学術論文ではないので引用させてもらう)、弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情であり、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」のことである。ルサンチマンを抱える人とは、「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」だ。

 

わたしは、このルサンチマンをずっと抱き続けてきた。社会の中心から弾かれ、割りを食い、被害者である自分として、鬱屈を蓄積してきた。そこには、剥奪感があった。日々自尊心を傷つけられ、なにかわからないところで痛みが蓄積し、神経痛のようになり、頭痛のように感じ(事実、わたしは精神系の漢方薬を毎日飲んでいる)、奪われているという感覚だけが残っていた。現実の世界では、わたしは不安定な就労に従事し、明日は見えず、同世代(といってもわたしが無意識に比較対象とする同世代の集団は階層が高い、社会の一部の存在にすぎない)と比べて著しく名誉を奪われている。今日持っているものを、明日は奪われるかもしれないとう恐怖に日々傷ついていた。そして、それを否認していた。傷だらけなのに、それに気がつかないふりをしていたのである。そういうことに、最近やっと気が付いたのだ。

 

気が付いたとき、わたしがやったのは、ルサンチマンをなくそうとしたりなかったことにしようとすることではなく、時間をかけて、それを正面から見つめることであった。内なる(恥ずかしい)ルサンチマンを、直視したのである。その結果わかったのは、ルサンチマンはわたしひとりが抱く感情では全然ないということだ。社会学徒のはしくれとして、やはりそこに現代社会特有のなにか(おもしろさを)嗅ぎ取ってしまった。そして、わたしの研究テーマが格差であると同定した。わたしが研究したいのは、人々の見えない傷であり、神経痛であり、頭痛であった。そのためには、全体のなかで彼らあるいはその地域がどのような位置を占めているのかを知る必要がある。

 

たとえるなら、わたしが研究したいのは、クラスの隅っこの方で人知れず傷ついているような人々だ。その子がクラスのなかでどのような位置を占めているのかを知ってはじめて、その子が置かれている状況がわかる。だからわたしは格差を研究したい。クラスでは、目立っている人が中心になって運営される。地域もおなじだ。成功した地域だけがロールモデルとして脚光を浴び、疲弊した地域はなかったことにされる。あるいは、(こういう言葉はあまり使いたくないが)新自由主義のもとで努力が足りない地域というレッテルを貼られ、切り捨てられる。しかしそれでよいのか?わたしは、(自分でも驚くほどの)不公正に対する激しい怒りをもっていた。その源泉はルサンチマンである。しかし、わたしはここで、内なる怒りの炎をはっきりと自覚することで、妄想の復讐の領域から一歩外へ踏み出し、仕事へと昇華し、研究する意味を見つけたのであった。