午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

オーストラリア

ここ数年、めっきり腰が重くなった。コロナ禍がそれに拍車をかけて、外出すらおっくうになっていた。家の外でもそうなのだから、外国なんて強制されなければ行くことはない。

 

だが、今は久しぶりに海外にいる。オーストラリアだ。明日からの国際学会での発表のために滞在している。コロナ禍のせいで複雑すぎる手続きを全部ひとりでこなして、なんとか滞在できている。今までオーストラリアという国にはまったく興味がなかった。ひさびさに日本を離れたことで、自分を取り巻いている状況(の痛み)からも離れることができた。日本を離れて、外の空気を吸っている。

 

わたしはどうも、日本の閉塞感や暗い世相をスポンジのように吸収し、体調不良になっていたようだ。オーストラリアの人口は若く、国は元気で、全然悲壮感がない。だから、わたしのメンタルヘルスも随分と改善した。

 

日本はもう、限界集落化している。そして、外に出て気がついたが、もうすでに、日本は貧困に喘いでいる。物の貧困は、心の貧困につながる。だから、ギスギスしている。しかもタチが悪いことに、日本人はおそらく、自分達が貧しくなったということを否認している。そしていまだに高度経済成長後の繁栄を引きずり、現在は昭和97年である。日本で感じていた頭痛のような苦痛は、わたしのものではなかったのである。わたしが日本で抱えていた悩みのほとんどは、日本を出れば、意味のない、どうでもいいことだった。たとえば、年齢。日本にいるときは気づいていなかったが、日本は年齢を重視する社会なので、わたしも29という年齢に非常にプレッシャーを感じていた。「昭和」の時代は、29歳は家庭をもって常勤で安定した仕事についている。その「正解」を世間(親)はもとめるので、そうなる見込みがない自分に苦しんでいた。だが、こちらにいれば、年齢も少子高齢化も関係ない。

 

あんまり、がんばりすぎるのはやめようと思う。学会も、積極的に動くのではなく、できる範囲でやろうと思う。