午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

呼吸

最近はつらい局面にあるせいで、本業はぎりぎり締切に間に合う程度に取り組み、座禅したり仏教書を読んだりしていた。つらいから神や仏にすがるなんて、どうにも都合がいいけれども、おそらく仏教の方もそれで良いと思っていることだろう。

 

研究室には人が恋しくなったら行く程度で、あとはひとりで修論を書いたりサボってYouTubeをみたりしていた。もっともとりあえずは来週水曜日に締め切りのドラフトがひととおり書き上がったので、自分ひとりで枠組みを構築してとりあえず最後まで書いてみるという第一段階は(なんの達成感もなく)終わって、先生や先輩方に送って意見を仰ぎながらひたすら書き直して完成を目指す第二段階に入った。

 

まさか自分自身が修論なんかでこんなにストレスとプレッシャー、不安を感じるとは思わなかった。その不安の大部分は「時間(締切)」から来ていることが今日の朝わかった。昨日ネットサーフィンしていてどこかの大学の先生のブログで「卒論の不安は合否判定の最後の瞬間まで消えないから、不安を消そうとするのではなくうまく付き合え」という言葉を読んで心が少し楽になった。ずっと自分の原稿を見ているので、自分の原稿がいいのかわるいのか、エビデンス力が高いのか低いのか、意義があるのかないのか、修論にしてはいいのかわるいのかがもうまったくわからなくなっている。そして中間発表時から「自信」を喪失していることが根本問題になっていることに気がついた。

 

不安の大部分は、自分ではコントロールできないのではないか、という恐れから来ている。そして実際それはコントロールできない。だから、捨て去るべきは「コントロールできるはずなのに」という自動思考、前提である。

 

ところで最近は家で10分程度座禅をやっているのだが、おかげでまったく薬に頼ることは全くなくなった(もともとほとんど飲んでいなかったが)。友人の影響で座禅をはじめて、最初の方は「空になれ!何も考えるな!」といちいち脳内で命令してはそれで頭がいっぱいになっていたが、曹洞宗の僧侶である南直哉氏の『仏教入門』という本の実践編で「ひたすら受け身になって音を聞け」というアドバイスが音を聞くタイプである私にはぴったりで、またフォームを正しくするようになってから、それ以来ブッダが『スッダニパータ』で言っていたような「座禅を楽しむ」境地に急速に近づいてきている気がする。

 

同じように、ずっと水泳に通っていて、私は体力がなく運動が苦手であるものの、今日は急に長く泳いでいられるようになった。以前はストレスのせいか心因性の吐き気が止まらなくなる時期が長く、泳いでいられなかった。しかし今日は、通っていたせいで筋肉が多少ついてフォームがよくなったせいは多分にあるにしても、それ以上に呼吸を整え、身体のちからを抜き、水と一体化するようになってから心地よさを感じるようになった。

 

ところでそのほんの少し前、一昨日の気分は最悪で、考えることの罠にはまっていた。しかし今日になってふと「悟る」ということの意味を了解した気になった。悟る、とは「(結果として)考えることをやめる」ということだと思う。つまり、「考えること」の先にあることだ。「考えること」自体に終わりはない。「悟る」というのは「考える」ことのメタレベルにある。「生きるとはなにか」という問いに終わりはない。私は不遜にも自分が恐れていた「考えること」至上主義に陥っていた。その背後にある無意識の前提は、「考えれば(いつかは)すべてを明らかにすることができる」というものである。しかし、(皮肉なことにも)少し考えればわかるようにそんなことはない。それに考えることは言語に頼っており、言語は常に現象をうまくすくうことができないので、いつまでたっても終わりはないだろう。その点、考えることが好きでない人(そんな人がいるとすればだが)のほうが真理をつかんでいる。「考えるだけ無駄」というのがそれである。

 

まだ少ししか読んでないが、『スッダニパータ』ほか仏の教えというのは、一言でいえば「ほっとけ」であると思う。ほっとけ、執着するな。一昨日の私は考えることに執着していた。関係性に執着しすぎてかつての恋人は私の元を去った。執着するから不安が大きくなる。

 

私は、俗物であり、俗世で生きている。20歳のときに形而上学的な世界とは決別した。その後多少は経験をして、自分が笑ってしまうほどの俗物であることを知った。しかし、私はそれを誇りに思っている。私は、せめて偉大なる俗物でありたい。そしてそれをバカにしながらシニカルに笑っている嫌な奴、それが私である。