午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

わからない論

今日は、朝起きたときからちょっと尋常じゃないくらいに眠く、何もできていない。最近また、ブログの更新頻度が増えている。それだけ、現実がうまくいっていないということか。しかし、現実がうまくいっていないのは、必ずしも悪いことではなく、内的な発見は多い。

 

今、アクティブ・イマジネーションがきっかけだったのかわからないが、20歳のときのような自分の地殻変動が起こっている。おそらく、20代から30代への移行期に差し掛かっているからだろう。

 

昨日の夜から、ひとつ、新しいことをはじめた。わたしはここずっと、強い不安に苛まれ、暇ができれば思い詰める傾向がある。「〜になったらどうしよう」「〜と思われたかも知れない」「もう終わりだ」、という感じだ。頭ではバカバカしいとわかっていても、辞めることができなかった。「Aになるかもしれない」が、頭の中でいつのまにか「Aになるに違いない」となり、「もう終わりだ」となる。たとえそのAが起こる確率が0.0001%であっても、そうなってしまう。

 

そこで対処法として思いついたのは、たとえば「Aになるかもしれない」と不安になったら、「Aにならないかもしれない」とその否定を反射的に頭の中で言う方法だ。それは、なにも嘘を思い込もうとしているのではなく、「なるかもしれない」に対して「ならないかもしれない」というのは、起こりうることとして論理的に正しい。

 

「将来、お金がなくなるかもしれない」だったら、「将来、お金がなくならないかもしれない」。「もう、終わりかも知れない」なら「まだ、終わりではないかも知れない」、「自分は、ここにいてはいけない」なら「自分は、ここにいてもいいかも知れない」、「この人にこう思われたかも知れない」だったら「こうは思われていないかもしれない」、あるいは「こう思われたからといってとくに問題はないかもしれない」という具合だ。

 

これは強制的にポジティブになろうとかいう話ではなく、逆に「アメリカのS&P500は今後10年必ず儲かるから安泰だ」と思ったら、「値下がりするかもしれない」とポジティブな思考も修正する。これは思考を現実化させるとかいう馬鹿げた自己啓発ではまったくなく、むしろ思考を現実に合わせていく方法だ。これを続けることで、思考にいい感じに余白がうまれることになった。

 

未来のことはわからない。これをしていると、つまるところ、わからないことに対して不安になっているという単純な事実に頭ではなく、心のレベルでようやく気がついた。年金や保険数理に見られるように、わたしはすっかりリスク計算や未来予測になれきってしまって、わからないということに耐性があまりできていなかったのかもしれない。これを続けると、今の生活や自分の思考が最善ではないという可能性を含みながら生きていくということができるようになる気がしている。そして、わからないからこそ面白いのだと、なんだか人生の達人めいたことを少し考えるようになった。わたしは、わからない論者になった。