午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

ありきたりな人間

懸案だった、ゼミ発表が終わった。わたしは束の間の休憩として、帰ってきてすぐにハイボールの缶を開けた。

 

ゼミは博論についての発表で、主観的にはうまくいっていなかったため発表資料を作りあぐねていた。資料は長らく白紙のままだった。しかしながら、直前になり、「もういいや。別にサボっているわけでもないし」と開き直って、現状を列挙して報告した。それに対して、先生から批判されるようなことは特になく、むしろ問題なく進めているという評価をいただいた。そう、わたしは別に、サボっているわけではなく、研究がうまく進まないのは研究という営みそのものに由来する本質的なものだ。

 

今回の発表は、博論全体にかんするもので、今まで出版した個別論文をまとめる、根っこの部分についてだった。わたしは社会学プロパーではないので、社会学なるものにずいぶんと苦労している。しかしながら、今回の発表で言われたことは、わたしが組み立てた問題意識に対して、今までの日本の小さな社会学に引っ張られてはいけない。もっとアメリカなど最先端の議論を見据えろ、というものだった。

 

ここで、少し前の自分なら、自分が否定されたとショックを受けたかもしれない。しかし、今はそうは思わない。少なくとも、正当に学術的な観点から批判される程度には、わたしの博論も進んだのだ。そうやって、かなりポジティブに捉えた。少なくとも、日本の社会学をフォローしなければ、日本の社会学に対する批判もでてこなかったはずだ。少なくとも、自分は成長している。その成長を噛み締めるべき。そう思った。博論は、(いい意味で)指導教員の首を縦に振らせるゲームなんだ。そういうことが理解できた。

 

ところで、昨日Youtubeを見ていたら、Abemaの番組で、「大学生の作家志望の男の子に小説を書かせると、8割は村上春樹風になる」というのをみて、非常に恥ずかしい気分になった。わたしの書くものも、やはり村上春樹のパクリのようなものになってしまう。それが嫌で、長らくわざと村上春樹の小説を読まないようにしていたが、それでもそうなってしまう。なぜかと考えれば、文体以前に、自分の精神構造そのものが、村上春樹の影響を深く受けてしまっているからだと思った。これでは、どうしようもない。村上春樹劣化コピーの域をでることができない。しかも、世の中にそうした劣化コピーがたくさん存在する。そのことがなにより自分の自尊心を傷つけた。自分は、本質的に、ありきたりな人間なのだと*1。そのことが一番辛かった。

 

しかし、本当に、自分は村上春樹劣化コピーだろうか?一方で、わたしはそうも思った。村上春樹の小説に出てくる「僕」は、あくまで序盤と終盤で変化しない。変化するのは、周りの方だ。あくまで、正しい「僕」とそうでない「世界」の二項対立。村上春樹の小説の構造は、だいたいそんな感じだ。彼のナルシシズムが、彼の書く小説の限界だとわたしは理解している。わたしは、それを超えたい。自意識に溺れる主人公が破綻して、その先に立ち上がる物語が見たい。それが今のわたしが書く小説の目的地だ。それだけでも、わたしと村上春樹は違う作品を目指していると言えるのではないか。

 

博論にしろ小説にしろ、本質的にありきたりであることを認めたことではじめて、ありきたりではない部分に到達しようとする努力の余地が生まれる。枠は大事だ。今までの自分は、枠を守ることをまずは意識しようとした。今から先は、枠をはみ出す段階に入ってきた。わたしはゼミを通してそう理解した。型がないのは、型破りではなく、形なしだ(by ドラゴン桜)。しかしわたしは型を身につけた。次にすることは、型を破ること。そして離れることである。

*1:このセリフは、最近狂ったように観たアニメPSYCHO-PASSの悪役槙島聖護が言ったセリフ「僕も君も、ごく普通で本質的にありきたりな人間だ」である