午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

切実さ

10月も終わりに近づいてきた。大阪生活も半年が経った。最近は、太陽の塔ハーベストの丘という堺市にあるローカルな遊園地に行ったりしながら、研究にも精を出している。今住んでいる「あびこ」という場所も、まあまあ気に入っている。

 

生活は安定し、研究も軌道に乗ってきたといっていいと思う。小説も、まだまだ道半ばではあるが、『小説塾』を通して先生の教えを乞うている。論文と小説というふたつの「書くこと」を通して、自分はなにを書きたいのか、ということを改めて自問している。そこで思い当たったのが、「切実さ」という言葉だった。そもそも、私が書くまでもなく世の中には書かれたもの、表現されたもので溢れている。そんななかで、わざわざ書く(読者からすればわざわざ出版物として読む)理由はなにか。その理由を探る羅針盤として、私は「切実さ」というキーワードを使いたいと思う。切実さ、というのは実社会でこの時代を生きている私達にとっての切実さ、という意味である。

 

世の中、「〜主義」のような政治的な言説は溢れている。しかし、一部の人を除いてそれがぴんとこないのは、それにアクチュアリティ(あるいは切実さ)がなく、どこか上滑りしているからだと思う。左派のリベラルが一部の庶民に目の敵にされるのも、そこにあるのではないか。アクチュアリティの有無は、生活に根付いているか否かにある。人は、難しい話はわからなくとも、それが切迫していて自分の生活と関係があるかは嗅覚でわかる。理論を話す人の内容ではなく、声のトーン、表情といったノンバーバルなもので判断しても、そんなに間違えない*1。地に足がついた理論、それが自分が携わっている社会学の研究でも、結局は先行研究をひっくりかえすような発見につながるのではないか。(査読が通るかわからないが)11月末に投稿予定の論文は、それを例証するようなものにしたいと考えている。

 

いずれにせよ、まわりのノイズを気にせず、"mind my own bussiness"の心構えで走っていきたい。

*1:ただ、嗅覚に頼りすぎるのもそれはそれで問題である。そのために、形式論理による演繹法と、推測統計学による帰納法が用意されている。このところ、私は博士論文においてこの嗅覚と推測統計学を統合しようと試みている。