突然、Tシャツ屋さんをはじめた。
といっても全然売れていないのだが。
けれども何か新しいことをはじめると、自分の歩き慣れた思考回路に新しい小道ができる。
それは大きな効用である。
たとえば、いつも行っている本屋を歩いていると「もっとこの本をここに置けば売れるのに」と無意識に考えるようになった。
同様に、論文を読んでも「もっとこの研究をこうすれば多くの人が関心を持つだろうに」と新しい視点で物事を見ることが頭ではなく実践レベルできるようになった。
さて、もっと大きく広げて、「社会学はもっとこうすればいいのに」と強く思うことがある。
これはTシャツを売るだいぶ前から心の中に沈殿しているものだ。
以下の話は、無名の大学院生(M1)の話として、街角の落書きだと思って聞き流してもらえれば良い。
私は学部では経済学を少しかじっていて、そこで「当たり前」とされていたことが嫌で社会学に専攻を変えた。
異邦人として学問を越境したから、社会学の先生たちや学会で「当たり前」とされていることがとても奇妙に映る。準拠点として経済学があるから、余計に物事を相対的に見ることができる。
多様性の確保が進化を進めると思っているので、以下に述べることを別にあたらめろと言うつもりはない。エスノグラフィーの「分厚い記述」などは、素晴らしい方法論、研究蓄積だと思う。
自分はそうではなくて、別のことをやりたいと思う、ただそれだけのことである。
まず、理工系の分野から見て、社会学の必要性は今日増していると思う。これはここで私が繰り返して言うまでもないと思う。面白かったのは、人工知能研究で有名な松尾先生が、これからは人文系の研究が重要になってくると語っていることだ。
だが、社会学の人たちがそれに応答している/する気があるのかは甚だ疑問である。
学会に行くと、内輪で秘儀を確かめあっている。そんな感じである。
やたらと「社会学は〜」「社会学は〜」と言う。そのくせ「社会学ってなに?」と聞けば、おそらくその人は混乱した顔で、長々と何かを言い始めるだろう。それらを一言で要約すれば「わからない」である。
そして、「人の数だけ社会学があり」、「これは社会学ではない」とその境界線に異様に固執し、常に「社会学の危機が叫ばれ」、どこか自信なさげである。
挙句の果てに、説明ではなく記述に終始していることが多い。
社会学で「理論」と言えば、分厚くて長い(そしてわけのわからない)本のことをさし、しかもそれは往々にして理論ではなくて視点だったりする。わからないものは、神秘的に感じる。これでは「社会学」と言う名のただの宗教ではないか。あるいは文化サークルではないか。
今日、他の科学では数理モデリングが当たり前のように使われおり、理論といえばモデルとほぼ同義である。なので、社会学講座に入って長い間、社会学をやっている人が言う「理論」が何を指しているのか全然わからなかった。
とはいえ、社会学というのはものすごいポテンシャルを秘めた学問だと思う。20世紀は経済学が成功した。そして今日、経済的要因に加えて価値や規範などの意味を研究することがより重要になってくると思うが、経済学のパラダイムではどうしても限界があると思う。それらに応答できるのは、むしろ社会学の方だと思う。
最近自分は農村の人口変動に興味を持っていて、数理人口学の中には生物学か経済学を基盤としているものはあるのだが、社会学を基盤としているものは存在しないと思う(少なくとも私が知る限りでは)。だから、そこに広大な仕事場を見出した。
こういう視点に立って、自分は研究を進めていきたい。いつ認められるかはわからないが、自分の頭で考えたことを信じるしかない。
(人口学の開祖、マルサスのモデルをデザインしたTシャツ。)