午後のまどろみ

らくがき未満 / less than sketches

承認

人間関係の基本は、承認なのだと思う。

承認とは、「相手がここにいる」ことを認める感情である。

 

関係がうまくいっていない(と自分が考えている)人がいた。とある事情で、その人とはしばらく一緒にいなければならなかった。その人は、何かに付けて文句を言ってくるし、さながらわけのわからない面倒なクレーマーのようだった。

 

しかしふとした気まぐれで、その人にコーヒーを淹れてあげた。たったそれだけのことだが、そこからわだかまりが溶けていったような感じがした。

 

「ちょっとした隙間にコーヒーを淹れる」という行為は、自分にとって媚びているわけでもへつらっているわけでもない。それが、少なくとも自分にとっては良かったのだと思う。媚びるのは、自分にとっても、相手にとってもよくない。媚びるという行為の裏側には、相手を操作できるという、承認とは正反対の感覚がある。しかも自分にも相当のストレスがかかる。自分の誇りを傷つける。そのうえ相手にもし正常な感受性があれば、意識はしなくても無意識のレベルで不快だと思う。バカにされていると思うかもしれない。

 

コーヒーを淹れたあと、自分自身を振り返り、自分は相手の存在を認めていただろうか、と思った。自己防衛で頭が一杯になって、相手の尊厳を傷つけてしまってはいなかったか。相手の声を聞いていただろうか。相手に、こちらを傷つける意図はないのかもしれない。その可能性を考えていなかった。

 

突然、解決策がわかった。相手の存在をリスペクトすること。リスペクトするとは、無理やり好きになることではないし、その人を特別視することでも、媚びることでも愛することでもない。過剰でも過小でもなく、ただそのままの相手がここにいることを承認すればよい。

 

承認しないというのは、相手にとっては、攻撃されたのも同然なのかもしれない。そして、相手は攻撃的になる。地下鉄でごくたまに女子高生相手に怒り狂っている老人を見るが、根本は同じ原理が働いている可能性がある。

 

過去や今を振り返れば、自分が苦手だと思う人や嫌いだと思う人のかなりが自分の方から排除していた部分があったのではないかと思った。中学生のいじめならまだしも大人になった現在、自分が標的にされることなどまったくない。もっとも、自分が行っていた中学は途中から荒れだしたので、日々そこからうまく逃げることに必死になって、その自己防衛の癖が今でもついているのかもしれない。しかし、もはやそんなのは過去の話で、捨ててしまえばいいと思う。

 

もちろん、答えがわかったからといって実践は難しい。今日は比較的心に余裕があったのでそうなったが、余裕がなければそうはいかない。だが、できる範囲で少しずつ、相手をリスペクトすることを実践したいと思っている。

 

そう思うと不思議なことに、自分自身に対する承認の感情が芽生え始めた。