午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

境界

今日、全く予定していなかったことではあったが、学部時代の友達と名古屋近郊の都市で会った。

 

あいちトリエンナーレ関係の展示を見るために彼女は重度の知的障害を持った弟、それに彼女の母親が立ち上げた福祉施設のスタッフとともに浜松からやってきた。

久々に彼らと再開した(学部時代、少しだけバイトをしたことがあった)。

 

ところで私は、いわゆる「アート」、およびそれに関わっている人々が大の苦手である。

彼らのうちの何割かが醸し出している排他的な雰囲気、「内輪で仲良くやろう」みたいな感じがどうも受け入れられない(別に受け入れなくていいのだが)。

私のような部外者には、仲間内だけで伝わる(主に横文字の)言葉のバリアで、傷つきやすい自分たちの空間を守っているように見える。

なので、現代アートの祭典のようなものにも強い拒否感があった。哲学を中途半端にやろうとして失敗しているようにしか捉えられなかった。

 

それは私の立場なので変える必要もないと思っているが、今日は若干いつもと違う経験をした。

旅館を改装した「アート」な空間を、観客として私たちが回っていたのだが、その知的障害を持った弟くんも一緒だった。

彼はずっと小石で音を鳴らして、好き勝手歩き回っている。もし彼が電車という空間にいたら、間違いなく私は非難のまなざしを彼に向けただろう。

しかし同じ彼の背景がその旧旅館の空間であったとき、私はまったく違和感を感じなかったどころか、親しみさえ感じた。彼が観客たちのなかで一番自然体にすら見えた。

 

その後もスタッフ一行でファミレスに行ったのだが、彼は暴れる寸前だった。

店員は一瞬驚いたものの、まわりのスタッフたちが自然に対処していたためか、すぐに適応したように見えた。

 

以前は、「排除=悪・包摂=善」あるいは全く逆に、「逸脱=悪・正常=善」、のように捉えていた。しかし今は、両者のバランスが大事だと思っている。

 

私が関心を持つのは、「電車」や「旧旅館」など「閉じられた空間」の境目である。その境界でなにが起こるのか知りたくて、私は礼文島で移住者と地元住民のつながり方(パーソナル・ネットワーク)について調査した(まだ論文にはなっていない)。

 

都市社会学において、フィッシャーは、都市では人々の選択性が増し、パークら初期のシカゴ学派が「逸脱」としてネガティブに捉えていたものを「下位文化(sub culture)」としてポジティブに捉えた。

 

都市では特に、同じ物理的空間にたくさんの社会=世界が存在している。

それらの境界、相互作用あるいは「公共」について、考えれたら楽しいかなと漠然と思っているところである。

 

おまけ:

試験的に、noteにて以前書いた短編を販売しています(100円)。ぜひご一読ください。

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