午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

お金という「発明」

東京で4年半暮らしたあと、島で2年間過ごした。

 

私は学生時代、いわゆる「資本主義」、グローバリズムというものを毛嫌いしていた。

 

東京で生活していて、労働市場というように、人間も含めたあらゆるものに値札が付いている社会が嫌いで、カール・マルクスやカール・ポランニー、ボードリヤールなどを読んでいた時期があった。

 

今でも、人間の能力などをあたかも物のように売買するのは好ましいことではないとは思う。

しかし、島という、どちらかといえば貨幣を媒介しないやりとりの多い社会で暮らしていて思うことがある。

 

それは、貨幣はまぎれもない人類の「発明」であるということだ。

 

よく、資本主義経済に対抗するため、シェアリングエコノミーのような「共有」を神聖化したような文脈を見かける。

 

だが、共有には共有の、贈与には贈与の「だるさ」があると思う。「だるさ」とは、その交換行為に内在する厳然としたシステムだ。

 

あまり書きたくはないが、何かを施されると、何かを施さなくてはいけなくなり、そういうのはあまり好きではない。

 

どんな行為の裏にも、生存のためのしたたかな利己的戦略がある。もはや好みの問題になるのかもしれないが、やはり資本主義社会を出自に持つ自分にとって、私有財産制を否定することはできない。そして、民主主義社会はやはり、私有財産制のもとでこそ力を発揮すると思う。

 

お金という「発明」を否定せず、資本主義の枠組みでより良い社会を築きたい。

礼文島から東京へ

島生活が終わった。今は東京にいる。

 

学生時代、よく歩いていた東京をもう一度散策してみた。

たかが3年前の話なのに、ずいぶんと年月が経ったと思ってしまう。

 

あのとき、一体自分は何をそんなに悩んでいたのか。

 

自分とは何か、世界とは何か。

自分はいかにあるべきか、世界はいかにあるべきか。

 

きっとそんなことを考えていたのだと思う。

 

自分は何かを得るために島に行ったのではなく、

高慢や偏見、そんなものたちを捨てるために島に行ったのだと思った。

 

ほんの少しだけ身軽になった。

掴みかけているもの、あるいはまったく掴めそうにないもの

春の嵐」ー私の住む礼文島にとっては完全に冬の嵐ーが、かなりの量の雪を残して、北海道の北のほうへ去っていった。

 

島に春が近づくということは、私にとって島を離れる時期が近づいているということだ。事実、あと2週間で私は島を去る。

 

この島で何を得て、何を失ったのか。そんな感傷に浸る間もなく、人生が、「生活」が、降りしきる雪のように重くのしかかってくる。

 

私は、私の中にある限りなく小さな「可能性」にすべてを賭けることにした。おぼろげながらに見えているもの、それを形にする方に人生そのものをかけることにした。

 

人はいずれ死ぬ。慣性で回る「生活」の中の尖った生命力=創造力。

 

一瞬の力にすべてをかける。この、密やかで「知的」な遊戯、命を賭けた限りなく刺激的な企みを、私は他に知らない。

 

 

 

高踏的な

光を求める私は暗がりの中

見慣れた光景、よくなじんだ思考回路

見た、真っ黒な海に浮かぶ月

 

高踏的な、世俗に塗れたため息は、

黒い海の底に通じた世界を相対化して

 

とても馬鹿馬鹿しくなった

自分自身とは無関係に

 

ただ月が

 

 

 

 

 

 

何かを捨てるということ

何かを捨てるということは、意外と簡単だ。

人生をやり直したかったら、環境を思い切り変えればいい。

私自身、東京暮らしを捨てて日本最北の離島で仕事を始めた。

 

しかし、どうしても捨てることのできない、厄介なものがある。

それは、他でもない、自分自身である。

 

学生時代、アフリカの奥地まで旅をしたとき、自分のすぐ後ろから「自分」がぴったりとついてくることに気が付いた。それは世界中、どこにいても、空想の世界ですら追いかけてくる。

 

この「自分」に、自分自身は辟易としている。少し説明させていただくと、この「自分」は、非常に回避的で依存的、おまけにひねくれていて、常にまわりをバカにしていたずらっぽく笑っている自信家だ。

 

つまり、「自分」は、学校・文部科学省とか大手企業・経済産業省、道徳の教科書や就活セミナーが求めるような「人物像」とはおよそかけ離れているのだ。

 

この「自分」について、非常に悩んでいたし、今でも悩んでいる。本当にこんなのでいいのか、うまく「適応」しようとしたこともあるし、適応しなければいけない罪悪感というものが根強くある。

 

卑近な例で言えば、職場でうまく電話応対ができなくて(より正確に言えば電話を取りたくなくてどんなに偉い人よりも後にしか出ない)、そんな自分を責めるつまらない自分がいた。

 

しかし、日本最北の離島で2年間暮らしてみてわかったことがある。それは、自分は、自分だという、なんとも陳腐な結論だ。

 

最近東京に帰った時、明日からアフリカへ行くという前の会社の同期と1年ぶりに会ったのだが、彼女は私が昔と比べて少しも変わらなかったことに喜んでくれた。

 

そのままでいてほしい、これ以上に有難いセリフが他にあるだろうか?

 

ダメでもいい。でもダメダメはいやだ。だからやるべきことをやる。この葛藤をしながら生きている自分。

 

嵐が来たら、終わるまで耐えるしかない。

嵐が去ってみたら、案外美しい世界が見えてくるのかもしれない。

街角

信号のある交差点の

向かい側に立っている
おとなしそうな可愛い女の子は
 
もしかすると
いつの日か
とんでもない男に
自分を奪い去られることを
夢見てるのかもしれない
 
大人になる前
ひどい男に騙されて
 
でもそんな男に限って
澄んだ夜の空の飛び方を
知っていたりするのだった

雨の雫

午後の雨が、降りしきる。雨の音を聴いた場所は、東京。または、どこかの国。

 

雨が降るたびに、微妙に異なる感情を重ね合わせる。

それらは液体にもかかわらず、徐々に堆積して、ひとつの大きな塊となっている。

 

あるいは私は、悲しむために生まれてきたのか?

自らの限界を、人々の悪の根源を、残酷な自然の原理を憎むために生まれてきたのか?

 

声を、感情を、刺激を覆い隠して生きていかなければならない。

感覚に忠実に生きれば、待っているのは制裁だけだ。

 

感覚は、雨の一雫のように脆い。

しかしそれでも、自分の五感と心、色と光が何よりも大切なのだ。

 

色と光は、あくまで自由を求め続ける。

私の魂は、堆積する雨の中で、囁き続ける。