午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

名古屋

生き辛さを感じる。

 

どれほど「あなたは価値のある人間なのよ」と言われても、それをにわかに信じることができない。

 

この社会で、弾かれている気分になる。

それは、自分が日本社会の一定数の人々が信じている価値規範=「常識」を心の底から嫌っているからに違いない。

 

「常識」を内面化することを潜在的に強く拒絶しているからこそ、まわりの人と同じような、自然な振る舞いができない。

 

親や学校の先生の「教え」、職場の規範、「社会」の「常識」。そんなものたちは、自分のためには作られていない。

 

かといって、自分にはそれらに対抗するだけの強い心も、強固な信念も論理も才能も持ち合わせていない。

 

だから、ひたすら心が傷ついていくだけである。それは加齢と共に寛解するものだと思っていたが、むしろ年々酷くなっている気がする。もうダメなのかもしれないとすら思う。

 

文章を絞めるような、とくに明るい言葉も思い浮かばない。

2018

「一年の計は元旦にあり」ということで、自分の生き方を再検討する。

ここでは、その目的を達成するために、大学時代の友人で現在千葉県いすみ市で地域おこし協力隊をしているAくんと比較する。

 

Aくんは自分と同様、仕事における自由を求めている。しかし、仕事に対するアプローチが違う気がする。

 

彼が目指しているのは、ハンナアレントの分類に従えば「活動」である。対して、私が求めているのは、「仕事=制作」である。

 

「活動」がエネルギーを注ぎ込む先は、人と人の間にある。対して、「仕事」が直接的にエネルギーを注ぎ込む先は、自分の内側である。

 

人と人の間に生きている自分が溜め込んだもろもろの感覚を外へ出すのだ。

 

「活動」は、直接的に他人に向かうので、その分理解されやすい。対して、「仕事」が理解されるのは、それが世に出た後である。

 

今自分がするべきことは、自分が描いた道を信じることだ。結果が出るまで10年以上かかるかもしれない。そもそも、結果が出ないうちに死んでしまうか諦めてしまうかもしれない。

 

それでも、他の可能性を手放すという大きなコストをかけながらも、自分を信じる理由はあるか。

 

私は、苦しいながらも、「ある」と応えたい。

 

自分の作品をつくればいい。自分の研究をすればいい。

 

受け流せないものがある。割り切れないものがある。それが自分の才能だと、信じるしかない。

25

19歳でトロントへ短期の語学留学をした。

そのとき先生に将来の希望を聞かれ、「研究者になりたい」と言ったのをふと思い出した。

 

いつのまにか6年が経った。驚きである。

かなりの紆余曲折があった。

 

慣れ親しんだ東京の街を去り、北の果ての離島・礼文島で2年間を過ごした。

そして、結局私は当初の希望に向かって進みはじめた。

 

まだ、スタート地点にたってもいないのに、突然暗くなることがある。

まわりの成功している(ようにみえる)友人たちを見て焦ったりもする。

 

自分の人生のテーマ、それは20歳のときに認識したそのままだ。

 

自分にとって生きることとは表現することである。

私は芸術と科学に身を捧げたいと思っている。

 

科学とは明らかにすることであり、芸術とは隠すことである。

 

光を当てることと暗がりに隠すこと。

自分にはその両方が必要なのだ。

それで自分の内面のバランスをなんとか保つことができる。

 

自分がいかほどの人間なのかはまだわからない。

「まだわからない」のは若さの特権であると思っている。

 

とにかく、前へ進むしかない。

雪の夜

ひとりになった途端、夜の恐怖と底の深い寂しさに囚われる。

 

置き去りにされたような感覚、なぜ生きているのかという見たくもない問いかけ。

 

電話越しの女性は、かつて私が書いた小説を読み返したと話してくれた。それは、かつての私のすべてを封じ込めたものだった。

 

自分の思考に耽溺していると、いつのまにか同じような道に捉えられてしまう。自分一人で暮らしていると、いつのまにか似たようなものを似たような調理法で繰り返し食べるようになってしまう。そんな自身の「癖」に、今の私は飽き飽きしている。

 

人生の到達点が見えない。というかまだ、登り始めたばかりなのだ。今夜はベッドの上で踊ろう。

斜陽

ベッドに横たわりながら、かすかに傾いた夕日を感じる。

 

今この瞬間も、我々は死へと向かいつつある。どんなに楽しい瞬間にも、隣には死がひそんでいる。

 

頭の中には、遠い過去、遠い未来、あるいはあり得たかもしれない別の生活、別の人生に対する強い憧憬がある。それらは決して満たされることのない願望であるが、すべて生きることへの憧憬であって、決して死への憧憬ではない。

 

秋の終わり、あるいは島生活の終わりの始まり

雨予報に反して、晴れた秋の空だった。もうすぐ綺麗な夕日が見られるだろうが、私はあえて家に止まる選択をした。窓から傾いた陽がわずかに差し込んでくる。

 

島生活も、終わりが近づきつつある。私の頭の中に様々な情景が思い浮かぶ。それらは自分を交点としてからまりあった数々の出来事であり、人々である。

 

礼文島での経験は、<<存在>>をめぐる冒険として自分の内面の奥底を世界に開示するための旅でもあった。

 

いづれ、この経験を何らかの形でまとめておきたいと思っている。

 

 

人生の寄り道

礼文島から一日をかけて、名古屋に戻って来た。束の間の滞在だ。

 

本屋の中をぐるぐる周りながら、自分の考えの中に没入する。

消費社会の象徴を眺めながら、自分が相手にすべきものを思い出す。

 

自分にとって礼文島での2年間は、人生の寄り道であった。それは、人生という長く深い夢の一部であった。

 

これからは再び都会の片隅で、孤独を飼いならしながらひっそり生きていくことになるのだろう。

 

自分にとって世界は第一に、観照するために存在する。そして第二には、自己の感覚を表現する場として存在するのかもしれない。