午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

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19歳でトロントへ短期の語学留学をした。

そのとき先生に将来の希望を聞かれ、「研究者になりたい」と言ったのをふと思い出した。

 

いつのまにか6年が経った。驚きである。

かなりの紆余曲折があった。

 

慣れ親しんだ東京の街を去り、北の果ての離島・礼文島で2年間を過ごした。

そして、結局私は当初の希望に向かって進みはじめた。

 

まだ、スタート地点にたってもいないのに、突然暗くなることがある。

まわりの成功している(ようにみえる)友人たちを見て焦ったりもする。

 

自分の人生のテーマ、それは20歳のときに認識したそのままだ。

 

自分にとって生きることとは表現することである。

私は芸術と科学に身を捧げたいと思っている。

 

科学とは明らかにすることであり、芸術とは隠すことである。

 

光を当てることと暗がりに隠すこと。

自分にはその両方が必要なのだ。

それで自分の内面のバランスをなんとか保つことができる。

 

自分がいかほどの人間なのかはまだわからない。

「まだわからない」のは若さの特権であると思っている。

 

とにかく、前へ進むしかない。

雪の夜

ひとりになった途端、夜の恐怖と底の深い寂しさに囚われる。

 

置き去りにされたような感覚、なぜ生きているのかという見たくもない問いかけ。

 

電話越しの女性は、かつて私が書いた小説を読み返したと話してくれた。それは、かつての私のすべてを封じ込めたものだった。

 

自分の思考に耽溺していると、いつのまにか同じような道に捉えられてしまう。自分一人で暮らしていると、いつのまにか似たようなものを似たような調理法で繰り返し食べるようになってしまう。そんな自身の「癖」に、今の私は飽き飽きしている。

 

人生の到達点が見えない。というかまだ、登り始めたばかりなのだ。今夜はベッドの上で踊ろう。

斜陽

ベッドに横たわりながら、かすかに傾いた夕日を感じる。

 

今この瞬間も、我々は死へと向かいつつある。どんなに楽しい瞬間にも、隣には死がひそんでいる。

 

頭の中には、遠い過去、遠い未来、あるいはあり得たかもしれない別の生活、別の人生に対する強い憧憬がある。それらは決して満たされることのない願望であるが、すべて生きることへの憧憬であって、決して死への憧憬ではない。

 

秋の終わり、あるいは島生活の終わりの始まり

雨予報に反して、晴れた秋の空だった。もうすぐ綺麗な夕日が見られるだろうが、私はあえて家に止まる選択をした。窓から傾いた陽がわずかに差し込んでくる。

 

島生活も、終わりが近づきつつある。私の頭の中に様々な情景が思い浮かぶ。それらは自分を交点としてからまりあった数々の出来事であり、人々である。

 

礼文島での経験は、<<存在>>をめぐる冒険として自分の内面の奥底を世界に開示するための旅でもあった。

 

いづれ、この経験を何らかの形でまとめておきたいと思っている。

 

 

人生の寄り道

礼文島から一日をかけて、名古屋に戻って来た。束の間の滞在だ。

 

本屋の中をぐるぐる周りながら、自分の考えの中に没入する。

消費社会の象徴を眺めながら、自分が相手にすべきものを思い出す。

 

自分にとって礼文島での2年間は、人生の寄り道であった。それは、人生という長く深い夢の一部であった。

 

これからは再び都会の片隅で、孤独を飼いならしながらひっそり生きていくことになるのだろう。

 

自分にとって世界は第一に、観照するために存在する。そして第二には、自己の感覚を表現する場として存在するのかもしれない。

荒野のおおかみ

雨が降る中、家の中でヘルマンヘッセ『荒野のおおかみ』を読了した。

 

今の自分にとって、質の良い文学や芸術は、日常生活から束の間の自由を錯覚させる麻薬のようなものだった。

 

この2年ほど、日常生活、事務室の規則的なチャイムの音に魂を売り渡すことで今いる家や毎月の給料を手に入れる悪魔的な取引の結果である日常生活によって、私は無意味な浪費を強いられていた気がした。

内省するべきエネルギーを、他人の欲求の充足のために振り向けなければならないような日常生活によって、私は自由を奪われていた気がした。

 

3連休の最終日である今日の昼下がりは、文学の助けを借りて、そうした労働させる権力の目をかいくぐって、束の間の内省を手に入れることができた。ゴミを捨てに行く途中に見かけた草の上に落ちた雨粒、ベッドの上に落ちてきた白い羽根のゆっくりした軌道、そのようなものすべてを感じることができた。

 

つまるところ、大切なのは、一流のものを取揃えることよりもむしろ、自分の感受性を最大限に研ぎ澄まし、ささいな日常世界にかすかに香る神の匂いを嗅ぐことである。

 

しかし、現実のせわしない世界の中では、少しでも感受性を研ぎ澄ませば、増幅された強い鉈のようなもので自分自身がボロボロにされてしまう。それゆえ平日私は心の耳を塞ぎ、心の目を閉じ、ただ心の中で縮こまって怯えているのをひた隠しにしながら慎ましく生きているのだ。

 

私の心地よい内省は、近所のおばちゃんが獲れたてのイカを大量に持ってきたことで破られた。他の人同様、そのおばちゃんがなぜ私に厚意をしてくれるのか私にはわからない。私の心の奥底にある弱さというか脆さが、ある特定の人々を惹きつけるのを私は知っている。しかし、それをして私の心の孤独を癒すことはできないことを私は今まで学んできた。私は、弱さと依存よりも、強さと信念を好むようになってきた。しかし、両者はコインの両面である。

 

自身の内に潜む創造性の影を捉えながら、私は今日も誰かの側で生きているのだろう。

生活と人生、あるいはボケとツッコミ

日曜日の昼下がりに、いつもより丁寧にコーヒーを淹れる。開封したばかりの新鮮な豆をミルで挽くと、匂いが広がる。

島の食材を食べ、登山をして、夜にヘルマンヘッセの「荒野のおおかみ」を読む。私の生活は満ち足りたものであるように思えた。

 

お笑いにはボケとツッコミがあるが、上述の生活は私にとっての「ボケ」である。ボケたままであれば幸せだ。

 

不意に、心の奥の方から「ツッコミ」が聞こえることがある。そのツッコミは、小声ではあるが、幸福な「ボケ」を一瞬で凍らせるような強力な声である。

 

大抵の人はお笑い同様、「ボケ」と「ツッコミ」が調和している、あるいはうまく折り合いをつけて漫才を続けているのだろう。だが私の「ツッコミ」は、漫才を根底から破壊してしまうような場違いで、「空気の読めない」本質的な声だ。その「ツッコミ」のために、私は今までの生活を放棄せざるを得なくなる。

 

最近では、自分はそういう種類の人間なのだと半ば諦めている。私は、自分の人生の目的も知らぬまま、死の直前まで突っ走っていくのだろう。