午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

京都

東京の下宿を手放して、長崎で居候生活を始めてから数日が経った。

長崎から京都に飛んだ。京都御所の近くに部屋を間借りし、 気の赴くままに同志社大学のラウンジでくつろいだり、四条や「哲学の道」沿いにあるカフェで物思いに耽ったりする。時間の許す限り、出されたお茶を飲みながら、ゆったりと本を読む。世話好きそうなカフェの女性と帰り際に談笑する。

 

京都ほど町歩きに適した街は無い。何気なく通りかかる小さな店が面白い。

東京の下宿先を家具も含めてすべて処分した際は、我ながら何を考えているのかと思ったが、今となっては手放して正解だと思えるようになった。私は、風のように、つかの間の自由を楽しんでいる。

 

紅葉の秋が近づいてきている。お寺を巡り、石庭を見て、「日本人は静粛を好むのか」と月並みな感想を抱いて納得した顔をする。金閣は分かりやすいが、私は質素な銀閣の方が良いと思う。

銀閣から哲学の道を歩き、南禅寺へとたどり着く。平日の、シーズンでない今は人もまばらで、聞こえるのは鳥の声、川のせせらぎ、赤くなりはじめた木々がそよ風に揺れる音くらいである。夕日に照らされた木々はとても美しい。この世には美しいものが多すぎて、その何千分の一も書き留めることができない。私はため息をつく。

 

まだ来て数日ほどしか経っていないが、早くも私は京都の複雑な世界に魅せられつつあるのかもしれない。

長崎

長崎くんちは終わった。

くんちを見物した後も、なかにし礼の『長崎ぶらぶら節』を読みながら、くんち、そして長崎という町の余韻に浸っていた。

 

本を閉じると、丸山の遊郭から自宅のリビングへと意識が戻る。

 

窓の外を見ると、長崎は秋晴れだった。女の子は仕事に行ってしまったので、私だけが部屋に残っている。

 

他人と暮らすのはとても面白い。寂しさや孤独も紛れる。しかし彼女は私のすべてを知っている訳ではない。私も同様だ。

他人に理解されたい、しかし理解されることが困難な私が私の中にいると思う。孤独、あるいは秘密と言い換えてもいいのかもしれない。伝わらないと知りながらも、伝えたい気持ちが抑えがたいものとなったとき、人はどう振る舞うのだろうか。

 

お昼どきが近づいてきた。身体は正直だ。ちゃんぽんか皿うどんか、焼きカレーベトナム料理か。尽きない悩みだ。

長崎

 

長崎ぶらぶら節 (新潮文庫)

長崎ぶらぶら節 (新潮文庫)

 

 

長崎に来て一週間以上が経った。正直ブログを書く気は全く無いが、変な義務感のようなものから、この記事を書いている。

 

ここ長崎に巨大な建物は存在しない。すし詰めの地下鉄も、毎日がお祭り状態のスクランブル交差点を有する地区もない。空気も悪くない。空は綺麗だ。それだけで、かなりのストレスから解放される。

 

路面電車に乗って、毎日図書館近くのカフェに行き、ゆったりと本を読み、眼鏡橋でほっと一息をつく。飽きてきたころ、長崎港に夕日を見に行く。今の私には、反発すべきものなどないし、ただ、ゆっくりと時が流れていくのみである。

 

現在、秋の大祭「おくんち」が開かれている。テレビをつけても、長崎新聞を読んでも、その話題で持ちきりだ。おくんちとは、各町が出し物を出して練り歩く、というものらしい。街を歩いていると、いたるところで笛の音を耳にする。山車や蛇踊りにお目にかかる。変わり種としては、「オランダ万歳」なるひょうきんな出し物がある。眼鏡橋付近を和傘を傾げて歩く和服姿の女性を見ると、洒落ているな、と素直に思ってしまう。

 

旧正月のランタンフェスといい、お盆の爆竹といい、おくんちといい、長崎市民は派手にやるのが好きなのか。墓の文字はどれも金色だ。この街にいると、ブリュッセルに滞在していたときのことを思い出す。ブリュッセルも、市内をトラム(路面電車)が走る、多文化を内包する穏やかな街だ。

 

過ぎ去った生活、東京のことも考えないでもない。これからの自分についても。しかし考えても仕方がない。私は、くんちを見物する。

 

逃避行

長崎へ来て数日が経った。私は今、港の近くにあるカフェのテラスでのんびりと景色を見ている。長崎港に停泊する漁船が風に吹かれて揺れている。今日もよく晴れている。

 

相変わらず、無気力にとらわれている。毎日が淡々と過ぎてゆく。私が見る限りでは、この街はとても静かだ。ここまで離れて、改めて東京にいた自分の姿をある程度「客観的に」眺めることができる。しかしそれは、少なくとも短期的には1円の収入にも結びつかない。この事実は私をさらに苛立たせる。

 

長崎市には立派な市立図書館が存在する。私はエドワード・サイードの『知識人とは何か』を借りて読了した。以前から気になっていた一冊だった。最初、私は強く共感し、途中、冷静になり、最後の方には理由の分からない嫌悪感に襲われた。もしかしたらそれは、自分自身に対する感情なのかもしれない。

 

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

 

 

時たま言いようのない孤独を感じる。何に対する孤独なのかはわからない。それは、強い光源に向かおうとする際にくっきりと現れる影のようなものなのかもしれない。社会システムからの分離による葛藤、自分が何者かになるための葛藤、1円にもならない葛藤。私は、いつまでカフェで本を読むだけの生活を続けるつもりなのか。私は何もしていない。作品を創る気にもなれない。ただ、毎日、食べる喜びを強く感じているだけの日々である。

 

ただ、今の自分が唯一持っているものがあるとすれば、それは何かからの逃亡への欲求である。

東京難民

今日、大家さんに鍵を渡して都内のアパートを出た。彼にお餞別に頂いた缶のサイダーを飲み干すと(こういう気遣いが素直に嬉しい)、今夜泊まる友人のアパートがある街へと向かった。

大きなスーツケースとカバンを持って、駅の近くのマクドナルドに入った。今、私が持っているスーツケースとMacBookは、学生時代に長期でヨーロッパを放浪した時、アフリカの砂漠に行った時にも、お供として付いていてくれたものだ。今の気分は、旅行者のそれに近い。私は明日、長崎へと発つ。

 

今の私の持ち物は、生活に必要最低限のもののほかに、何冊かの本、たとえばドストエフスキー地下室の手記』、Macbookが2つ(母艦とAir)、iPhone、それにコートだ。私は友人の帰りを待つ間、マック3階の窓から夜の街を見下ろして、とりとめのないことをただぼんやりと考えている。

 

かつて、浮浪罪というものがあったらしい(1948年に事実上廃止)。住所を持たないというだけで、国家や社会は、私のことを犯罪者、あるいは予備軍として扱うのであるのだろうか。かつて、黒人と白人の犯罪率の差の数字を根拠にして、黒人のタクシー乗車を拒否するのは正当かどうかを争っていた、というような話を聞いたことがあるが、「拒否するのが正当だ」と考えるのが社会の大勢の見方なのであろうか。とすれば、今の私は、社会からどのように見られるのか。

 

ひとつわかっているのはーー私が自分に対して言えることはーーいかなる状況にあっても、私は、私として生きていかなければならないということだ。「自分が生きている時代を愛せ」そんなことを須賀敦子も言っていたのを思い出しながら、私は暖かい布団に想いを寄せていた。

片付けの魔法

ミニマリスト、シンプルライフという言葉が流行っている。そのコンセプトは、文字通り、「必要最低限のもので、シンプルに生きてゆく」というものである。

 

東京の下宿先を引き払うので、自分が持っている服などに対して「いる、いらない、いらない、いらない、いらない、いらない、いる」と強気の断捨離を実行している。来月から放浪の旅にでる。「住所不定・無職」という新しい肩書きを手にいれるのだ。大学に通っていた数ヶ月前と現在の落差を考えると、ため息のような笑いがこみ上げてくる。

 

9月は雨の日が多かったが、今週になって晴れるようになってきた。窓に差し込む光を浴びながら、人生についてほんのすこしだけ考える。

 

ミニマリストの考えについては大いに賛同するが、ひとつだけ同意できないことがある。それは、人間関係についてだ。

物に対する断捨離を超えて、人間関係まで「必要、必要でない」と仕分けする風潮も一部あるような気がするが、それは本当に良いことなのだろうか。

私の目には人間関係の断捨離が、傲慢なものに映る。仮に人間関係を「必要性」の観点から整理したとして、残るのは、空っぽの部屋と化した精神、「いつか自分も断捨離の対象になるのではないか」という漠然とした不安ではないのか。

 

ここで「3.11」などという記号を持ち出したくはないが、たとえ腐れ縁であっても、たまたま知り合った「絆」を守り、面倒な人間関係、うるさい女にも耐え続けることで精神の貧困から救われるのではないのか。部屋を片付けながらそんなことを考えた。

I Should Care

曇りや雨の日は激しく気分が落ち込む。私の気分は天気と綺麗な相関関係がある。生きている喜びを感じるのは大抵が晴れの日、死にたいと思うのはほとんどが曇りの日。そして生の儚さに旅愁のような感情を抱く時には高い確率で雨が降っている。

今日のような蒸し暑い嫌な雨の日、ましてや家に引きこもっていたいような鬱屈とした精神状態の日には、本当に気分が悪くなる。自分が生きていることに対する言い訳をするように小説を書く。どうやら、人は、人と関わらなければ生きてはいけないらしい。

 

自分の気分にいつも振り回される。生きる喜びを強く感じた数秒後に、絶望の淵に落とされることはよくある。大抵、強い高揚感を感じたときに、様々なアイデアが生まれ、断片だった知識や経験がひとつの体系的なものとしてまとまってゆく。絶望を感じるとき、物語が心に浮かぶ。

 

思いつきに振り回されて世界中を飛び回る羽目になったこともある。そんな私に耐えられる人が友人になってくれるのだろう。

 

世の中には、そんな状態になんとか病と名付けて「治療」しようとする風潮があるようだが、もったいないことだと思う。機械的な生産のバイオリズムに合わせなくても生きていける方法はないものか、といつも思う。しかし、世の中に存在する「仕事」のほとんどはそれを許さないようなので、私の葛藤はしばらく続くのだろう。

 

ちなみに表題は、たまたま今聴いていたジャズのスタンダードから。私が流していたのはBill Evansのもので、彼の繊細なピアノの音は今日のような雨の日によく似合う。

 

Bill Evans at Town Hall

Bill Evans at Town Hall