午後のまどろみ

らくがき未満 / less than sketches

低気圧と身体

朝11時に起きると、あまりにも身体の機能低下が激しかった。「もしかして台風が来ているのでは?」と考えながら街を歩いていると、案の定人々の口から台風の話題が出た。やはりそうか、と私は思った。こういう時、私はほとんど身動きが取れなくなる一方、気ばかりが焦ってしまう。気が付くともう17時だ。

 

ニート生活をはじめてちょうど一週間になるが、あっという間に生活の規律は崩れ、食べて寝るだけの廃人と化してしまった。おまけになるべくお金を使いたくないので、私は今住んでいる街を出ることができない。

 

短編小説をひとつ仕上げようと思っているが、話が全くまとまらない。表現したいものは見えているのに、文章がついてこない。こんな経験は初めてのことだ。本来生活の糧になるような仕事をすべきなのに、こんなことに時間を裂いていて良いのか、という罪悪感のようなものも感じてしまう。自分は何をやっているのだろう。一体このブログの文章は誰に向けて、なんのために書いているのか皆目わからない。

 

取り敢えず、台風が早く過ぎることを祈るしかない。

ニートな日常

暇なので、最近のニート生活について綴ろうと思う。

 

朝は9時に起きている。平日も休日も、だ。今の自分にとって、平日と休日の間に境目はない。会社員時代は毎朝6時に起きて、7時前には家を出ていた。今は外に出る必要がない。生きることが仕事だ。

 

起床して、ストレッチをして、コーヒーミルで豆を挽き、ハンドドリップで丁寧にコーヒーを淹れる。時間がなくてコーヒーメーカーに頼っていた会社員時代とは違う。昨日昼に近くのパン屋で買っておいた有機天然酵母を使ったレーズンパンをスライスして、ゆっくりとした朝食を摂る。食べ終えて食器を片付けると、ピアノの練習をする。学生時代つまらないと思っていたバッハの良さを今更分かった気分になる。練習を終えると、近所のスポーツジムで泳いでから、大学の図書館で本を読む。飽きた頃カフェに行き、人生について憂鬱な思考を巡らす。自分が生きているのか死んでいるのか、正直なところよく分からない。そんな生活が続いている。梶井基次郎『檸檬』の描写を思い出す。

 

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。焦躁しょうそうと言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔ふつかよいがあるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。」

「時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。」

「ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。私はまたそこから彷徨さまよい出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ちまったり、乾物屋の乾蝦ほしえび棒鱈ぼうだら湯葉ゆばを眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町をさがり、そこの果物屋で足をめた。」

 

檸檬・冬の日―他九篇 (岩波文庫 (31-087-1))

檸檬・冬の日―他九篇 (岩波文庫 (31-087-1))

 

 

今はあまり将来のことについては考えないようにしている。とにかく、今は働きたくない。それだけだ。

ツアー旅行と一人旅

オフィスで倒れて救急車で運ばれてから、ずっと東京から離れた実家の部屋にこもって、今後の生活について考えていた。

ひきこもりに関する本は何冊か読んでいたが、自分がひきこもりたいと思ったのは初めてのことだ。誰とも話したくなかった。何日もの間、ただ、窓から溢れる夏の光に照らされて、雲ひとつない青空を見ていた。時間の感覚がなかった。何も考えることも、何をすることもできなかった。あらゆるものが死んでいた。しかし、本当に死んでいたのかは疑わしい。高熱が出た時、身体は横たわって何もしていなくとも、免疫システムは病原菌と闘うためにフル稼働している。それと同じように、ただぼうっと空を眺めているとしても、心の底は失われた自分の輪郭の再構築のために、きっと忙しく動き回っているのだろう。その証拠に、心の底から時折イメージの断片が脈絡なく浮かび上がって、ひとつの形として統合されていくのが意識に上ることがよくあった。私は、ベッドの上に寝転んで、これからの生き方を考えた。

 

学生時代、主にヨーロッパを何ヶ月もひとりで放浪していた。一方、旅先の観光地でツアーの団体客に会うこともしばしばだった。私も中学生の頃、ヨーロッパにツアーで行ったことがある。

ツアーは非常に効率的である。添乗員がいる。行き先も分刻みですべて決まっている。入国の際の書類も、レストランの予約も、何もかもが旅行会社によって用意される。私たちがツアー旅行でするべきことは、お金を払うことだけだ。後は、フルコースのように私たちの眼の前に、長々とした説明とともに次から次へと料理が運ばれてくる。

 

学生時代、留学先のトロントからニューヨークまでツアーで行ったとき、私はどうしてもその日の夜に催されるVillage Vanguardでのジャズライブに行きたかった。私はカナダ人の添乗員に無理を言ってツアーを離脱した。その瞬間から、ニューヨークの街に放り出された私たちの大冒険が始まった。私たちが行く1日前にあった銃撃戦で日本人が死んでいたこともあり、私はにわかに興奮した。終電を逃した夜中のニューヨークで、私は生きていることを実感した。

 

ツアーは非常に便利である。効率的である。しかし、帰ってきた後、一体旅行の内容のどれだけを覚えているだろうか?ツアーという『商品』を消費して、残るのはポーズを決めた『楽しそうな』写真である(もちろん、ツアーでないといけない場所もあるので、ツアーを全面的に否定しようとは思わないが)。

 

翻って、自分の部屋の現実に戻る。今、自分の手の中にあるのは、会社での安定した(と言われている)人生と、社会の底辺(と言われている)その日暮らしの不安定な人生だ。前者では、年金、保険料、家賃の補助から自己啓発まで、すべて会社がやってくれる。会社に行きさえすれば毎月固定給が入り、その上ボーナスまでもらえる。定年後は、自動的に積み立てられた退職金が支払われる。後者は、年金、保険料等の手続きはすべて自分でやらなければならず、自分で動かなければ稼げない。地獄を見るのは明らかだ。

 

さて、どうするかーー私は、目をつぶって、そのことについて考えをいつまでも巡らしていた。

オフィスと照明

学生時代、私は曇りが非常に嫌いだった。気圧の低下で頭が痛くなるし、(思い込みかもしれないが)呼吸するのが苦しくなる。しかし、オフィスで働き始めた今、私は曇りを好むようになった。雲は、太陽から私の存在を隠してくれるからだ。

オフィスにいると、私は常に白い直線的な照明にさらされる。私には逃げ場がない。長時間、照明の刺々しい針に突き刺されていると、心身が破壊されていくような気がする。

 

以前、心理学の本を読んだとき、「科学によって、人間の微妙で繊細な『もの』は無遠慮に強い光を当てられ、切り刻まれている」と直感的に感じた。それは現代社会一般の傾向なのかもしれない。

 

別の本で、「現代から『妖怪』の住処が駆逐されている」、という話を読んだ。心の闇の部分、あるいは闇にしておきたい部分が、強引に剥がされ、結果、人々は心に「原因不明の」不調をきたす。そんなことが思い浮かぶ。

 

個人を個人たらしめるものは、『秘密』であると思う。『秘密』には、『理解できない』神秘さが伴う。そして、神秘さには論理を超える力がある。人の心の隠すべき『秘密』を作品として昇華して、『科学』に対抗するのが現代の芸術家のなすべきことだと私は思う。

 

搾取される身体

労働とは何か。会社員として、デスクに座りながらふと考える。パソコンから目線を外すと、他の社員たちが忙しく電話、打ち合わせ、プリンターで印刷しているのが見える。私は今、白いカッターシャツを着ている。他の社員もそうだ。それはこの国の民族衣装のようなものだ。

 

たまに窓の外を見る。新卒の私は、1日の間、もっと言えば週7日のうち5日は、自席という一点から動くことがほとんどない。GPSで見ると、1日10時間、身体の座標は固定されている。窓から東京の清潔なビル街が見える。なんのために働いているのかとため息をつく。そう考えている間に、私は上司に意見を求められる。スピードを要求される。プレゼンテーションのためのわかりやすいフレーズを、お客様のための成長を、付加価値の創造を、イノベーションを押し付けられる。私の生命力は生産に吸い取られる。生産されたものは、消費として文字通り消えてゆく。消費の後には、再び生産の必要(ニーズ)が待っている。

 

パソコンを見ながら、なんのための成長か?競争か?イノベーションか?とふと考え込んでしまう。ものが余っているが故に、「いかにしてものを売るか」を命をかけて競い合い、貧困に陥るという逆説は、なんとも興味深いけれども、自分が付き合わされるとなると話は別だ。私は時間に対して給料をもらっている。それは、わずかな金と引き換えに、自分の命を細切れにして差し出していることに他ならない。

 

価値は生産の中にあるのか、消費することで自分の価値を確かめるのか(ちょうど広告が謳うように、「わたしらしさ」を消費によって感じるのか)。消費の後、残るのは、存在の根本的な虚しさではないのか。本当の喜びは、自分の存在を確かめるための生産から湧き上がるのであって、「他人のための」生産である分業は本人にとって苦痛しか引き起こさないのではないか。そして、余暇はあくまで「余」であって、当人が心から休まることはない。それを消費で忘れようとして、うまくはいかなくて、資金がなくなって、また生産の時間奴隷になるのではないのか。

 

本当の価値はどこにあるのか?おそらくそれは、自分の心の中、目の前に広がる景色の中にあって、決して記号的、抽象的な「未来」の中にはない。