午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

言葉にできないトラウマと、共世界について

4月になった。晴れたと思ったのも束の間、ふたたび雨が多い毎日になっている。

 

3月下旬から今まで、図らずも、時間がたくさんあった。わたしは、あいも変わらず暗い部屋のなかでひとり寝込んでいた。

 

しかし、身体的にはほとんどなにもしていなくても、心の底を流れる精神の動きは、今までになく激しかったのかもしれない。

 

あるときから、ジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』の新版を、時間をかけてじっくりと読んでいる。それは、わたしが今までの短い人生のなかでした「読む」という体験の中で、もっとも実りある、深い経験のひとつであることには間違いない。

 

まるで雨が降った後の緩んだ地面を一歩一歩踏みしめて進んでいくように、最初の文章から次の文章、次の行へと進んでいく。読み進めるのと同じタイミングで、その記述内容が示す心のある部分が治癒されていく。それゆえに、記述内容と現実世界は対応して、逆にまだ心がそこまで追いついていないと感じたときは、本を閉じて、カウンセリングなり現実世界の仕事や交友をこなしたり、あるいは電気もつけずに部屋に閉じこもったりしていた。それを半年ほどやっていたと思う。

 

彼女の本は、複雑性PTSDの概念を提唱した本として有名だが、その内容は、『心的外傷と回復』のタイトルが示すように、心的外傷についての記述の後、回復することに入っていく。ハーマン氏の筆致は力強く、まるで、登山をしている私たちを随所で励まし伴走してくれているようである。

 

そして、わたしが読んでいる箇所は、いよいよ最終章の「共世界」に入っていく。具体的な内容は、グループセラピーの効果についてだ。

 

わたしは、物心ついたときから、集団というものに深い傷をもっていた。人間不信は酷かったが、集団にたいする不信感は輪をかけてひどく、社会学を専攻したのもそれが理由だったと思う。

 

そんな、言葉にできないトラウマを抱え続け、自分の今の性格の構造は、その痛みを防衛する、あるいはやり過ごすように構造化されていることに気がついた。いわば、ルサンチマンの重い鎧をつけて、自分の本心がわからなくなっている状態だ。あまりにその状態が長かったから、それが自分そのものだと思ってしまっていたくらいだ。1人 vs. 70億人のような心理状態で生きてきたものだから、それはそれはエネルギーを消耗し、疲れ切ってしまい、恨みが蓄積されるのも、無理がないと思う。

 

このことにかんして、特効薬はないと思うのだが、強いて言えば、わたしが今やろうとしていることは、日常生活の手触りをひとつひとつ確かめていくということである。

 

いままでの頑強な思い込みは一旦置いておいて、世界(という単語が広すぎるならば、自分や恋人、友人、同僚、店員さん、等々)がどのようなかたちをしていて、触れるとどのような変化をするのか、そのなかには自分自身も入っているが、そういうことを恐れずにひとつひとつ確かめていくことである。

 

今わたしは、1年経ってやっと、1年前にした田園地域のインタビューの録音を聞きなおし、文字起こしチェックをしている。それで気がついたのは、わたしが他人を恐れ過ぎており、他人は、自分が思っているような反応を実はしていなかったらしい、ということである。もっとも、それはインタビュー記録を読むときの自分の状態で変わるかもしれないが、しかし、その、「読む」という行為そのものが、複数の可能性に向かって開かれていることそれ自体が、唯我独尊的、自閉的な世界が、地平線が見えるほど広がった共世界へと開かれることの、なによりも証拠なのではないだろうか。

 

そうした意味で、今まさに、自分は変わろうとしている。閉じた人間から、開いた人間へ。それは、さなぎから蝶になるような、メタモルフォーゼそのものである。

3月の終わり

3月がもう少しで終わる。最近は天気が悪い日が続いていたが、今日は天気が良い。このあたりで、ひさびさに記事を書いてみたいと思う。

 

年末年始は、家族でカンボジア旅行をしていた。能登地震のさいには、日本にいなかった。羽田空港の航空機爆発のニュースとともに帰国した。便は成田だったので、ぎりぎり影響を受けなかった。

 

日本に帰ってきてからは、突然の関東の有名私立大からの助教ポジションのオファー、そしてそれが決まりかけた直前にダメになる、予定していた同棲が延期になる、その間に彼女が新社会人になり芦屋に引っ越す、わたしが大学院を単位修得退学することを決めて退学届を出す、退学にともない3年間続けてきた学内のカウンセリングが終了する、等々、この3ヶ月は良いことも悪いこともジェットコースターのようにあり、疲れても無理はないなと今書きながら思う。

 

先週、はじめて芦屋にある彼女の新居を訪れた。新居も、芦屋の街もいい感じだった。そこで、彼女から「ダイニングテーブルをどうするか、一緒に考えよう」と言われた。何気ない一言かもしれないが、わたしは、その一言に、どれだけ救われたことだろう。それはわたしにとって、ゆううつな人生のなかに差し込んだ、一筋のひかりだった。そうか、独りじゃないんだ。そのとき、生まれて初めて、自分の人格が尊重された気がした。

 

4月から、どうなるかわからない。けれど、正直、大丈夫な気もしている。だってもう、自分はいままでの自分じゃないんだから。

軽さから重さへ

12月になった。近頃は急に寒くなった。思えば、2023年は挫折と幻滅の連続だった。一番大きな幻滅は、自分自身に対してだ。それでも、わたしは生き抜いていかなければならない。

 

ゼミ終わりに、ひさびさに指導教員の先生と一対一で話した。就職の話になって、わたしは、(たまには)社会学専攻らしくマックス・ウェーバーの『職業としての学問』を引きながら、

 

「アカデミアといえども、政治なんですね。自分は今まで、アカデミアに夢をみすぎていました。みんなで純粋に真理を追い求めているような、そんな営みだと思っていました」と言った。

 

先生は「そうだ。そこで、道は2つに分かれる。そこで辞めるのか、そうとわかった上でなお進むのか。そこが分かれ道だ。ウェーバーは後者の人だった」と言った。そういわれたとき、わたしはようやく覚悟した。わたし自身も、後者の道を歩もうと。アカデミアに限らず、なんらかの職に就く、あるいは社会で生き抜くために、夢から覚めた上でもなお、それをやっていこうと。

 

突然、心の中に、"Es muss sein!"という言葉が浮かんだ。ベートーベンが、死ぬ間際に作曲した弦楽四重奏の余白に書き込んだ言葉だ。"Muss es sein?""Es muss sein!"。「そうであらなければならないのか?」「そうであらなければならない!」という意味である。

 

この言葉を、わたしは、愛読書であるミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』から知った。小説によると、ベートーベンがこの言葉を発したのは、もともとは友人が楽譜を見せてという要求をしたのにたいして、「金を払わなければならない!そうでなければならない!」というような、軽い冗談だったらしい。それが、いつのまにか、作曲することを通して、最後には運命的な重さを背負うことになったという。

 

この"Es muss sein!"という言葉が頭に浮かんだ瞬間、わたしが高校卒業後東京の大学に通い、礼文島に行き、そして名古屋を経て大阪に来て恋人に出会った人生の経路が、今に至る経路のただ1通りしかないということにたいして、「そうでなければならない!」と強く直感した。それは、無数の偶然が自分自身を交点として、ひとつの必然として立ち現れてくるような、奇妙な感覚だった。

 

受動的で、ともすれば被害者的であった己の人生が、実は自分自身の主体的な選択の連続であった。その気づきを得た瞬間、自分自身の人生にたいする解釈が180度ひっくりかえった。その思考のプロセスが、"Es muss sein!"の一言に集約されている。それがとても感動的だった(それは完全にわたしの頭の中の出来事だったので、誰かと喜びを共有できなかったのが残念だ)。それに、わたしはこの言葉から、わたしがいままで散々抑圧してきた、フロイト精神分析の理論における"es(本能に近い欲求)"が、"muss"をとおして"sein"、すなわち「存在、あるいはわたし自身の現れ」につながったことを連想して感動した。

 

今までは、過去の別の選択肢や過ぎ去った可能性にいつも後ろ髪を引かれ、後悔ばかりしていた。しかし、そんな可能性は蜃気楼のようなもので、実際には決して実現しない。それがはっきりとわかった。なぜなら、わたしは、たとえその時点に巻き戻したとしても、それを選択しないからだ。

 

人生をもういっかいやり直したところで、結局は同じ選択をする。もしも、人生というものが、自分自身の選択によって結局は構築されていくものだとしたら、やはりもう一度やり直したところで、結局同じことになるだろう。そして、実現するのは、今わたしが生きてきた、たった1通りの人生でしかない。「もしも」は存在しないのだ。

 

"Es muss sein!"という言葉を思い出してから、わたしは小説の主人公トマーシュの生き方に自分を重ねた。浮気症の「軽い」トマーシュは、「軽さ」に憧れつつも、結局テレザというひとりの女性とともに生きる「重さ」を選んだ。わたしもまた、(トマーシュのように浮気症ではまったくないが)「軽さ」を求めていた20代から、「重さ」を求める30代へとシフトチェンジしてくことになる。なぜなら、わたしは結局のところ、「存在の絶えられない軽さ」に文字通り絶えられそうにないからだ。そういう確信がやっと持てた。

 

仕事に関しても、今まで過度に防衛的で、搾取を強く警戒していたが、今の社会の仕組みを認めた上で、「損して得取れ」と自らに言い聞かせ、目の前の仕事をきちんとこなすことを誓った。

 

ようやく、わたしは生き抜くことに対する覚悟を決めた。

 

訴え

まるで、長い夢を見ているようだった。

 

東京での、2年ぶりの学会発表。品川での弟との再会。そうしている間に病室に訪れた、恋人の学部時代の親友の死。

 

家でトラウマの本を何冊も読んだ。大学で学生相手に教壇に立って授業をした。恋人が就職先を決めた。カウンセリングルームで何かを話した。中東で虐殺が起こった。

 

丹波篠山で黒豆を収穫させてもらった。小雨が降った。恋人が満面の笑みで、黒豆がなっている房をこちらに持ってきた。帰り道、夜の大阪で来年度の引越し先の話をした。

 

陽の光と、大粒の涙の間を何度も往復する。なぜ泣いているのかもわからない、そもそも、泣いているということにすら気がつかない。

 

生きているとは、どういうことなのだろうか。生きられなかった人がすぐ近くにいる。丹波篠山に向かう途中の電車で、窓の外の自然を見ながら、パソコンでカタカタと作業する恋人のすぐ横で考えていた。

 

心の傷を負うとは、どういうことなのだろうか。それは、電車の窓に降り注ぐ雨とどう違うのか。それは、人間の深淵と関わっている予感がする。

 

死を恐れている。終わりを恐れている。しかし、死を恐れるとは別の生き方もある。死の「なかに」自ら飛び込む、がそれである。死を表象として対象化するのではなく。

 

死のなかに飛び込んだ先に、感じたもの。それが雨であり、涙であった。そして、飛び込んだ先にあった死は、もしかしたら案外優しく、それこそ陽の光のようなものなのかもしれない。

 

限りある時間のなかで、死んだ恋人の親友はなにを訴えていたのか。それは、決して小難しい机上の空論ではなく、きっと、もっとずっと根源的なものだ。

 

なにか大きな勘違いをしていた。功利主義者のように、快・不快の損得計算をしていた。不快のなかにこそなにか根源的なものにつながっているということを、知識としては知っていたが、意識としては知らなかった。

 

人の生き様は、その人が自らの傷と、そして連綿と続く一人ひとりの運命と、どのように向き合うかにかかっているのかもしれない。

重さと軽さ

昨日、大阪のとある駅構内にある、定食屋に入った。ここに来たのは大学院受験のために大阪に来た日以来で、3年半ぶりだ。以前はひとりだった。しかし、昨日は恋人と一緒にいた。そこで気がついた。ああ、ずいぶんと幸せになったな、と。今が一番幸せだ。そう思った。

 

今日で、学振の任期が切れる。博士課程のあいだの学振特別研究員は、無条件で月20万円と数百万円の研究費がもらえる。もらえるのは、全国の博士課程進学者の1割程度だ。そんな、みんなが憧れる学振をとっていたのだが、わたしの場合、それがずいぶんと重荷になっていた。終わってみて、たしかに金銭的にはかなり苦しくなるものの、身が軽くなった気がして、気分がずいぶんと楽になった。

 

どうも、本来のわたしは、とても「軽い」人間のようだ。人によっては、それを「無責任」ととらえるかもしれない。わたしは旅人、放浪者のような人間である。そんなわたしにパートナーがいることが驚きだ。いままで自分は、社会の一員になろうとして、自分自身にたいして「重い」人間を演じていた。それが苦しかった。

 

だが、そんな自分にたいして昨日、パートナーが「あなたは縛られるっていうことが、本能に近いレベルで無理な人だからね」と言ってくれた。それを聞いて、ありのままの自分が赦された感じがした。そうか、自分は恋人にそれを隠していたつもりだが、バレていたのか。そうか、それはバレるよな、もう3年も一緒にいるんだから。それを分かった上で、わたしと一緒になろうとしているのか。そう思って、なにか、とても重い荷物を降ろした気分になった。

 

 

 

 

かくれんぼの終わり

暑すぎる夏が、やっと終わりつつある。秋の気配を感じている。

 

この夏は、研究はあまり進んでいないが、内的な作業はかなり進んだ。自分の生まれから現在までの年表を書くことで、その時の気持ちを救い出していた。この作業は、ネットで見たわけでもなく、心理士の先生に指示されたわけではなく、自分で考え出し、自分で実行した。この作業をとおしてわかったのは、いままで、自分は自分の悪いところばかり探していたことだ。そのときそのときの自分を救い出すことで、自分を公平に見ることができる。悪いところももちろんあるが、高が知れているし。それ以上にいいところもある。それに気がつけてよかった。

 

今日は、農村で行ったインタビュー調査時につけたフィールドワークの記録を整理していた。わたしは、4月に行ったそのフィールドワークの記録をずっと放置していた。心理的抵抗があったからだ。それはなにかといえば、わたしがインフォーマントから受け取った善意を直視するのが、恥ずかしかったからだ。「自分はこんな善意を受け取る資格はない。自分は悪い子だ」とずっと思ってしまっていた。しかし、年表によって自分を見つめ直した今、善意もようやく素直に受け入れつつある。

 

いってみるならば、自分はずっと、自分に対してかくれんぼをしていた。自分に直視されるのがこわくて、あるいは人見知りを自分自身にすら発揮して、自分が見るたびに、自分は隠れていた。だから、「自分」という存在を感じることができずに、その延長である他者や世界との対象恒常性も育めないままだった。

 

年表や、たまに日記をつけるようになって、自分が確かに存在していることを確認しつつある。それに、今までは母子関係が密着していたが、カウンセリングにより母子分離が進むと、今度は「父なるもの」、二者関係から三者関係という公平な審級の存在が視界に入り始めてきた。いままでは、自分と母親的世界の二者関係しかなかった。世界はあくまで母親なるものの延長だったので、自分が何かをすれば母親=世界に大きな変化が起こる、という世界にとらえられてきた。しかし、第三者という視点が入ることで、自分と母親的世界は相対化され、その奥に本当の世界が広がっていることがわかった。本当の世界は、自分がほとんど影響を与えない、確実に存在する世界だ。わたしは、自分と投影だけの息苦しい世界から解放された。

 

「父親的なもの」、それは今まで「超自我」という抽象的な概念でうっすらとらえられていたのみであった。その超自我については、いままでは超自我に守られていたが、もう、今の自分は、超自我に守られる必要がないくらいに成長したのではないか、そう思った。

 

年表その他をとおして、現実の父親、そして象徴的な「父親」と向き合った。小さい時の記憶にあるわたしの父親は、頭も良く、スポーツもできて、頼もしかった。しかしながら、小中学生の頃に海外に長期間単身赴任してしまった。父親はだいぶたってから戻ってきたが、わたしは幼少期の「厳格で完璧な父親」と、「帰国してくたびれたおじさんになっている父親」の折り合いがつけられなかった。

 

強い去勢不安や「〜べき」という命令に長年怯えていたのは、この完璧な父親のイメージのせいではないかと思った。それがわかった今、わたしがするべきことは、父親とは違う人間であることを認めて、自分の人生を歩んでいくということである。なぜなら、はじめから、父親とわたしは違う人間だからだ。父親の真似をしたところで、うまくいくはずがない。

 

いまするべきことは、これからなにか新しいことをはじめることよりも、自分自身を深いレベルで認めることだ。それが、わたしが歩んでいく道だ。

生の源泉

最近、ずっと「考える」ということをしていた。ひとつづつ立ち止まって、「自分はどう生きるのか」とか、「友達とはなにか」とか、そうした基本的なことを考えていた。そう、大事なことは、いつも基本的なことである。

 

同時に、何冊かの本も読んだ。池田晶子の『14歳からの哲学』、漫画版の『君たちはどう生きるか』、などなど。幸い、(暑すぎる)夏休みで、時間はけっこうあった。だから、なにかを隠し続ける自分自身と、少しずつでも向き合おうとした。果たして、今このブログを書いている自分は、いったい何者なのか、と。

 

武井壮Youtubeなどで見たが、いわゆる「運動ができない人」は、自分の身体の使い方が、うまくイメージできていないことが原因らしい。「両腕を水平に伸ばす」ことを実践したとき、頭の中では水平に伸ばしていても、実際には水平になっておらず、ずれてしまっている。そうしたズレが、スポーツができない原因だそうだ。

 

わたしが今生活で苦しんでいるのは、この「ズレ」ではないか、と思った。「自分が思っている自分」と、実際の自分がずいぶんと異なっている。本当は背が高いのに、背が低いと思い込んでいれば、低い天井があったときに、かがむことをせず、思い切りぶつかってしまう。そんなことを繰り返しているのではないか、と思った。そして、正確な自分をイメージするには、自分自身が人々の間で動かなければならない、と思った。ただ頭で空想していても、本当の自分はわからない。

 

そんなことを思っていたのと前後して、『君たちはどう生きるか』を読んだ。「コペル君」の気づき、「自分は世界の中心ではなく、中心の周りを自分たちがまわっている。そして、中心には誰もいない」という気づきの描写は、目から鱗だった。小説よりも、丁寧に描かれた漫画だからこそ、腑に落ちたのだと思う。今まで「自分は脱中心化できていない」と頭ではわかっていたが、腹では相変わらず自分中心に世界がまわっていた。しかし、その描写を読んだ瞬間に、わたしの世界はコペル君と同じく、コペルニクス的転回をした。漢方をもらっていた医院で読み終わって、帰り道、踏切をわたるとき、何百回もとおっているその通りの景色が、まったく別の景色にみえた。それは、可でもなく、不可でもない、何の意味もない、それでいて、確かに存在している世界だ。それが、とても不思議な気持ちがして、そして解放された気がした。自分自身の心の檻から自由になった。それがとても嬉しかった。

 

この転回が起こったのは、突然ではなく、2年以上カウンセリングを受けて、心理士の先生とともに、ひたすら自分に向き合ったからだ。その上で、その瞬間にそれに出会い(偶然飲み会前に時間潰しで行った丸善で手に取った)、その転回が起こった。

 

自分が囚われていた世界とは、自分が搾取される世界だった。そのことに気がついたのは、自分自身の生まれてから現在までの年表を作ってみたことだ。Excelで、西暦、年齢、出来事、その時感じたこと、今現在感じていること、の5列を作り、1年ごとに振り返って書いてみた。その作業をとおしてわかったことは、自分はずっと大人たちに振り回されて、誰も助けてくれずにずっと寂しさや悲しさ、怒りを我慢してきたことだ。しかし、今は子どものときとは違う。子どものときの自分の感情に、年表を通して「出会った」ことで、子どもの自分は手当てされた。

 

そうしたことで、自分と向き合うことができた。自分は「奪われた」から、今度は「奪おう」として、他人からたくさんの「善意」を無意識に奪ってきた。そして、それにほくそ笑み、今度はその人がなにかを奪われた、として彷徨うようになることを喜んでいた。だが、そんなことをしても、虚しさは募るばかりだった。

 

しかし、コペルニクス的転回をした今、他人と自分との大きさが同じになった今、そんな奪ったり奪われたりのやりとりは、意味のないもののように思えた。他人から奪ったものは、もとの場所に返さなければならない。そして、奪われたものの「価値」は、大したものではないこともわかった。

 

それについて説明するさいに、ものの「使用価値」と「交換価値」を分けて考えることが重要な鍵だ。「水とダイヤモンドのパラドックス」だ。水は、必要不可欠なものだが、値段は安い。ダイヤモンドはあまり使い道がないが、値段は高い。使用価値としては水の方が高いにもかかわらず、人々がありがたがるのはダイヤモンドの方だ。現代人は、交換価値を使用価値だと錯覚している。

 

わたしは、無意識に容姿や学歴、仕事などに固執していた。他人から褒められるからだ。しかし、それらに固執すればするほど不安は募り、もっとすごい人を見ては不安が募るばかりだった。しかし、前述の「使用価値」と「交換価値」の違いを思い出して(それは研究のためにアンリ・ルフェーブルの『都市への権利』を読んでいたときだ)、自分の本来の「価値」、すなわち「使用価値」とはなにか、に気がついた。わたしの「使用価値」、それはきっと、優しさだ。そして、優しさは泉のように湧き上がり、多少もっていかれたところで、どうってことない。それがわたしの本来の価値であって、わたしの価値は容姿や学歴、仕事ではない。大海の水を桶に汲んで盗んだところで、海はすこしもなくならない。恋人がそばにいるのは、きっとわたしの本来の価値ゆえにだろう。

 

優しさは、わたしが交換可能ではないのと同じ意味で、交換可能なものではない。そう思って、自分も少しはましな人間なのではないかと思うに至ったのである。