午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

よく視る

休日だったが、オンラインで学会に参加した。(もう、ずっとこのzoomでのスタイルでいいのにと思う)。

 

このところ、研究が伸び悩んでいて苦しい。「新しい」知見を出すことに苦戦している。まるで産むことをせっつかれているニワトリのようだ。それに社会学は研究対象を構築するという独自の難しさがあって、それがとてもつらい。そもそもなにを研究すればよいのかわからないのだ。

 

私の研究テーマである条件不利地域は、地域づくりだの地方創生だの言われていて、研究もたくさんあるが、それでもなにを研究すればいいのかわからない。だいたいのことはもうすでに明らかになっていて、今更なにかをやる意味はないように思えてしまう。

ただ、そんなときに強烈に思い出すのが昔西洋美術史の授業で見たピカソやブラックのキュビズムの絵だ。

 

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(出典:https://mmms.me/articles/tamaya2/41


もちろん私は美術なんて全くの門外漢だが、それでも私のような一般の人間に対して美術(特にカメラが現れて以降)は「ものの見方」を変えるということをこれでもかというくらい教えてくれる。それは研究においてもかなり役に立つ。

 

もともと計量経済学で育った私には、地域社会学の人びとのフィールドに対するフェティシズムが異常に見える(いつか挑発的な学会発表をしてやろうと思う)。計量経済学の分析には基本的にセンサスデータなどの二次データしか使わない。対して地域社会学は自力でデータを収集することに誇りを持っている。厄介なのは、彼らは二次データに対して異様に攻撃的であるということだ。

 

地方創生の議論の中でいちばん有名なのは増田寛也の『地方消滅』だが、現在の地域研究ではこの本を悪の権化のように批判の材料として扱うことが常態化している。先行研究を読んでいて思ったのだが、「地方消滅の可能性がある」vs「農山村は消滅しない」という(不毛な)争いの根源は、分析手法の違いではないか。マクロ統計に依って全体を見ている分析と、フィールドに依った分析の違いでしかないのではないか。それでいまいち議論が噛み合っていない。最近はそう考えている。幸い、自分にはマクロデータの統計分析とフィールド調査の両方の視点があるので、博論ではバランスのとれた分析をもとに既往のからまった議論を解きほぐしていければよいと思う。

 

というと方向性が定まっているように聞こえるが、気がつくと焦り、結果が出せないのではないか、(宝を求めて)掘る場所が間違っているのではないかという強烈な不安にいつも襲われている。

 

「探す」という行為で思い浮かぶのが父親である。私の父親は無くしたものを見つける能力が異様に高い。「あれ、ない?」と家族の誰かが家の中で言っていると父親が必ず見つけてくる。それはおそらく、「ある」と思っているから出てくるのだろう。対して私は心のどこかで「ないに違いない」と思っているから見つけられなかったということが往々にしてあった。このように、先行研究の穴も必ずあると信じて今の分析を続けるしか無い。

 

疲れた。ビールでも飲むか。