午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

考えるって何って聞かれたものだから

数日前、大学時代の友人と議論になった。その詳細は私の個人的な問題に関わるので述べないが、その中で「考える」とはなにかという話になった。

 

彼は池田晶子が好きなようだ。私は食わず嫌いのような感じで読んでいなかったが、気になったので先ほど大学図書館に先行研究を探しに行ったついでに彼が引用していた「14歳からの哲学」を借りてみた。そして最初の「考える」という章[1][2][3]を読んだ。

 

その部分だけ読んでみた感想だが、やはり私は池田晶子の言っていることに同意できないと思った。特に、彼とも議論になった部分だったが「考えれば『本当のこと』がわかる」という部分に同意しかねた。この章のなかで何度も出てくる「本当のこと」というのが何を指しているのかはブラックボックスである。「考える」ことが「本当のこと」を知るきっかけになる可能性がある、ともし彼女が主張しているとするならば同意できるが、自分の頭で「考える」ことで「本当のこと」がわかるというのは誤りであると思う。

 

池田氏が書いている「本当のこと」には2つ、区別しなければならないものが存在すると考える。ひとつは、「物が上から下に落ちる」という事実、もうひとつは「生きていることは素晴らしい/素晴らしくない」という価値判断である。これは実証研究の基本である。

 

この事実と価値判断の区分のうち、池田氏が言っているのはどうも後者の価値判断の方であるように思える。池田氏は「考える」ことで「私」だけではない普遍的なものにたどり着くと何度も繰り返しているが、事実ならともかく価値判断において普遍的な価値というものはあり得るのか?という問題になる。そしてそれに対する私の考えは、あり得ない、である。価値=良い/悪いという判断は、あくまで個人的あるいは集団的(特定の社会階層など)なものであるからだ。

 

あるいは氏が述べているのが事実についてであったとしても、「私」が「考える」ことだけで「本当のこと」にたどり着くことは疑問である。それは「私」の思考能力を過大評価しているのではなないだろうか。私が考えることで得た「真理」が、「本当のこと」であるか「思い込み」であるのかをどうやって「私」の内側で判断するのだろうか?その基準はなんだろうか。

 

氏はその基準について、「誰にとっても正しい定規(p.16)」という比喩を用いている。そのうえで、その正しい定規は「君が考えれば、必ずそれは見つかるんだ。正しい定規はどこだろうってあれこれ探して回っているうちは、それは見つからない。考えることこそが、全世界を計る正しい定規になるのだとわかったときに、君は自由に考えはじめめることになるんだ(p.17)」と書いている。どうだろう、いかにも文学的、詩的で美しい表現ではないだろうか。

 

「考えれば、必ずそれは見つかる」となぜ言えるのだろうか。考えている人が知的障害者でも、どこの国の文化の人でも、どの時代の人でも成り立つのだろうか。あるいは、なぜ「考えること」が「正しい定規」になるのだろうか。

 

科学の世界において、定規は2つある。ひとつは論理で、もうひとつは統計学だ。前者は演繹(deduction)、後者は帰納(induction)に対応する。とくに現代の数理論理学(NKやLKなどのシステム)は、人間の自然な思考を論理的な規則として表現したものであるとされている。あるいは3つ目として、アブダクションがある。氏が言っている「考えること」とはアブダクションに近いのかもしれない。アブダクションとは、ざっくり言えば「ある驚くべき事実Aがあったとき、それを説明する論理を思いつくこと」であり、仮説形成のための論理と言われている。しかしこれは定規ではなく、定規が計る対象である。真か偽かを、アブダクションで判定することはできない。アブダクションが正しいことかどうかは実験や観察で経験的に実証されなければならない。あるいは論証されなければならない。その「実証」ですら、観測する機械は理論負荷性(測定方法にも予め理論的な仮定を含んでいる)を持つため、本当に命題どおり「測った」と主張するのはかなり難しい。論証にしても、論証はつねに仮定に依存するため、仮定の妥当性を検証し続ければ公理主義の限界に行き着く(ユークリッド幾何学において三角形の内角の和が180°という命題が真であるのは、ユークリッド空間を構成する公理を設定した場合だけだ)。また、こうした妥当性を計るための無矛盾性の論証や観察・実験といった方法そのものの妥当性も内在的な問題は多い(無矛盾であればよいのか、帰納法のベースとなっている推測統計学の理論的問題など)。

 

これに対する批判としては、「演繹や帰納といった科学的な手続きも人間が考えた産物である」ということがあるだろう。そのとおりである。それを考えた人間は、「本当のこと」に近づいたとは言えるかもしれない。しかし何をもって近づいたのかと言えるのか、本当に近づいたのか、その妥当性の基準は疑問のままである。

 

私の意見としては、「考えた個々人が議論をする」ことを通して相対的に正しい定規というものが手に入るのではないだろうか(間主観性)。しかしそれも絶対ではない。いつか覆される。私の意見としては、「考えること」には限界がある。考えたって所詮、人間には「本当のこと」がわからない。人間の認識枠組み自体が人間の認識の限界から自由になれない以上、「本当のこと」をそのまま認識することはできない*1

 

人間が考えることには限界があり、それを特別視するべきではない人は真理を知りえない。それが当該の箇所を読んだ上での私の氏に対する批判であり、同時に友人に対する批判でもある。反論を楽しみにしている。

 

引用文献

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

  • 作者:池田 晶子
  • 発売日: 2003/03/20
  • メディア: 単行本
 

 

*1:カントでも読んだほうがいいのかもしれない。