午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

「今」を生きるということ

短い間に、また停滞期間が訪れていた。それは事故のようなものだった。加えて、体調もよくなかった。

 

今まで信じていたものが、ばらばらになりそうになる。そうしたとき、どうすればよいか。それは、ずっと寝転がって、ただばらばらになって空に投げ出された要素たちを眺めることである。そうすることで、今までは要素A、B、C、Dはほぼ自明なものとしてこれこれの形で結びついていたと思い込んでいたところを、実はそんなに単純な構造をしていないということに気がつき、新しい発見があり、より深い理解への糸口となる。しかしその作業は深い闇と無気力の中で行われる。表面的には、ただ休むことが重要である。

 

 

20代の前半は、今の自分は将来の自分のための「投資」のように考えていた。将来大きくなるために、今幅を広げておくべきだと考え、様々な古典を読み、世界中を旅して様々な人に会った。それが今の自分を形作っているのは疑いない。しかし、今はそうした「今」-「将来」という単線的なつながりを強く疑っている。かといって、刹那的に生きればよいと無条件でいうつもりもないが。

 

20代前半は、社会(もっと特定化して言えば労働市場)と自分の「形」が合っていないことにひどく苦しんだ。今でも、社会が多少変わってきたとはいえ、一歩大学の外に出ればそうした事柄が待ち受けている可能性は大いにある。くるりの曲に似せて言えば、「自分は三角、社会は四角」である。

 

そうした現実の一方で、20代前半は自分がとんでもなくすごい人間になると思っていたし、そうなりたいと思っていた。しかし生きていく過程で、必ずしもそうなる必要が自分にはないこと、自分が思うすごいの判断基準が社会やマスコミが「すごい」と認知するような社会的地位や権威が高さと決してパラレルではないこと、すなわち自分が思うすごいと社会的な「すごい」の間はかなり乖離していること、そして自分は「すごい」人間ではなくすごい人間になりたいのだということ、つまり自分が自分を認められるようになることこそが判断基準であると考えるようになった。私はすごい人間と「すごい」人間を両方間近で見てきて、そういう結論に達した。

 

そうした過程で自分の視点は来るべき「将来」ではなく今に回帰してきた。

 

今ではなくて漠然と成功した将来をイメージするということは、私の場合、今からの逃避、すなわち今のしょぼい自分と自分がなりたい大きな自分との認知不協和を解消するための手段となっており、将来は現在の延長にあるという事実を無視している。だから、これは別に老後を見据えて今貯金すべきではないとかそういうことを言っているのではない。その2つを隔てるものは、将来が現実に基づいた想像=予測なのか、単なる妄想なのかの違いである。

 

人生とは、今の積み重ねである。大切なのは、成功するかしないのかよりも、自分が何をするか(あるいはしないか)であると思う。

 

何もしない、というのは非常に重要なことである。なぜなら、何もしないことで人は自分と出会うからである。XXをしている自分、という限定が取っ払われたとき、本当の自分と出会う。それを恐れるがために毎日を忙しくする人もいるのだと思う。自分というのは、なんとも頼りないものだ。しかし、各々の個人性や価値は、全体社会の複雑さや価値に匹敵するものだと思う。

 

確かに個人は社会の中では無力だが、その中で個人として貫こうとする努力は「生きている」という実感に結び付くと思う。組織の制服を来た部品としてではなく、個人としての行為が関係性の中で承認されたとき、人は「認められた」と思うだろう(もちろん、制服をきた個人というものは十分にあり得る)。

 

「個人になること」。これが今の私の努力内容である。私が20歳のころから持ち続けているのは「人間は誰にでもそれぞれの才能がある」という信念である。結局のところ自分はそれに賭けたいし、自分が「より良く」生きることにおいては、才能の大小が問題ではないのだ。自分の才能に立脚して存在すること。才能というか、感性と言ったほうが適切かもしれないが、これが人に活力を与えてくれると思う。人は、自らの感性を大切にすべきである。少なくとも、曲げるべきではない。なぜなら、感性こそが個人存在の根本であるのだから。