午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

高齢者問題と若者問題に関する雑記

今日は「べき乗則」に熱中していた。

きっかけは、自分の社会的ネットワークの研究にBarabasi-Arbertモデルを改良したモデルを組み込もうとしていたことだ。

 

BAモデルは、成長するネットワークをモデリングしたもので、新しい点が既存のネットワークにつながるとき、すでにたくさんのつながりを持っている点に優先的につながるというルールを設定してある。そして、出来上がるネットワークの次数分布(つながりの多さを少ない方から並べたもの)はべき分布(少ないつながりを持つ多くの点と、多いつながりを持つ少ない点)に従う。

 

このべき分布、自然界や社会の様々なところで見かけるらしい。実際私が会社員としてデータ分析をしていたときも、日本中の会社の売上高の分布はべき分布(あるいは対数正規分布?しかしコルモゴロフ=スミルノフ検定にかけたが正規分布ではなさそうだった)に従っているように見えた。

 

まあべき分布の話はある意味どうでもいいのだが、少数の大勝ちしている人と、多数の何もない人、の構図は現代社会でますますみられるのではないかと思う。たとえば、youtuberの再生回数はそのような分布になっているのではないだろうか(知らないが)。

 

ここで困るのは、私のような大多数の普通の人である。少数のスターになるための競争が煽られているような気がするが(短期間でXX億円稼いだ〇〇、がもてはやされるなど)、私はそれには参加したくない。がんばっていい大学にいって大企業に入るくらいならある程度誰にでもできたかもしれないが、少数の、本当に少数のスターになるには、運など様々な要因があって、いい大学-いい企業に入るよりもはるかに難しいうえに、長続きしないだろう。

 

また話は飛ぶが、私の一人暮らしの祖母のことを思い出す。彼女は定年近くまで学校の先生を勤め上げ、今は年金で暮らしている。毎日駅に通い、駅付属の大きな図書館で暇をつぶしているのだが、とても辛そうだ。会うたびに「初めて人と会った」と私に訴えてくる。

かたや、礼文島に住んでいた頃、ほぼ同い年のおばあちゃんが隣に住んでいたが、彼女は網外しという漁の作業に現役で携わっており、いきいきとしていた。

 

2人の違いをわけるのは、労働の有無だろう。労働は、人に生きる意味を与える。少なくとも一次産業の場合はそうだ。工場労働者やサラリーマンは場合によってはマルクスが労働疎外と呼んだものに侵されるかもしれない。しかし、私が今問題にしようとしているのは、労働からの疎外である。

 

私の祖母は、もはや高齢者の労働力を必要としなくなった(人手不足だから必要、という声は十分あるだろうが)社会から疎外されていると感じているだろう。一次産業の場合、経験によって知恵や経験が蓄積されるため、尊厳という観点から、労働は高齢者に生きがいを与える。しかし、同じ尊厳という観点から、現代社会が高齢者に用意できる労働というものは必ずしも質の高いものではないだろう。高齢者は(もちろん全員が全員そうではないが)社会が彼らの知恵を必要としないことに、おそらく不満を募らせている。今や社会が必要としているのはアイデアであり、創造力であるが、それらを持っているのは若い人であるからだ。

 

では、若い人はもっとも需要されるはずなので、もっとも輝いているのかといえばそんなことは全然ない。ひとつは、超をつけたいくらいの高齢社会で、若者はマイノリティとなっており、彼ら(のなかの普通の人々)はなかなか自由に動くことができない。加えて、社会経験のなさといったものが彼らを弱い立場に置く。社会の「液状化」、雇用の不安定化、プレカリアートの議論はうんざりするほど多くある。ニートなどの若者は、労働からも疎外されている上に、所得も社会的承認もないという何重にも疎外されている。

 

では中高年が輝いているのか?私にはそうも見えない。この話に黒幕はいない。しかし現代社会は、ますます平等から自由に舵を切っているように見える。一方で新自由主義が目の敵にされているが、私はミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』やハイエクの『隷従への道』はとても面白いし理にかなっていると思う。自由も平等も、それなりに必要だ。ではどうすれば良いのかといえば、フランス革命がその2つの言葉の後に「博愛」という言葉を持ち出したように、人々の良心によってバランスするのがよいというのがとりあえずの意見(願望)だ。

 

金持ち(IT長者や起業家など)を賛美する風潮もよいが、もう少し他者に対する公共心というか道徳心を育てる教育をしたらいかがだろうか?これはただの愚痴なのかもしれないが。