午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

日常の交差

久々に「生きる意味がわからない」という状況に陥ったまま、ベッドで寝転んでいた。今から思えば天気が良くなかった。

 

一日中家で過ごそうと思ったが、15時すぎにたまたま大学図書館で面白そうな本があるのをOPACで見つけたので、そのまま大学へ行くことにした。

 

1時間かけて大学に行き、しかも溜まっていた本を返そうとリュックに入れていたのだが教育学付属図書館が閉鎖されていたので返却することもできず、重い本を持ったまま中央図書館へ行き、目的の本を借りた。

 

その本は、まだ全部理解していないものの、直感的に思った通りとても面白かった。私は研究で構造方程式モデリング(SEM)を用いているのだが、これだけだと因果関係の特定が難しいため悩んでいた。この本(『統計的因果探索』)では最近流行りのCausal Inference(統計的因果推論)の枠組みで、SEMの因果関係の特定を狙うと言うものだった。まあそんなことはどうでもいいのだが、私は帰りの電車の中でもこの本に夢中になっていた。秦基博の『トレモロ降る夜』をヘッドフォンで聴きながら、ついさっきまで生きる空虚さを感じていたことをすっかり忘れていた。

 

ラインを見ると、ついさっきまで「生きる意味がわからない」などとメッセージを送っていた友達から返事が来ていた。吉祥寺に住んでいる彼女は、その問いに答える代わりに吉祥寺のカフェ(?)の写真を送ってきた。写真から伝わってくる別の街の別の時間、別の生活は、自分の抽象的な思考から抜け出す回路となった。さらに吉祥寺には、大学時代の別の友人が紅茶専門店で働いているはずであり、彼と彼女には面識はないものの、なんとなくつながっているような気もした。

 

もし街で疎外感を感じるとしたら、それは自分以外の行き交う人々をただ客体として眺めるだけだからだ。一方、今私が感じたのは、同じく街を行き交う二人の友人の「主体的な」日常の意味世界を(想像を通して)感じ取ったからだ。

 

自分の生の空虚さに意味を与えるのは、他者の「意味」を了解し、自分とたとえ弱いとしても結びついたときだ。「人生」という物体は存在しない。人生とは、本質的に自分自身の過去・現在・予期される未来をひとつのものとして見た時に生まれる自分自身の解釈であり、評価である。

 

自分の有意味性を感じるのは、自分自身が他者によって解釈され、他者による解釈、あるいは他者自身を解釈することで得る根源的な喜びである。私は、大学からの帰り道、ふとそんなことをふと思った。