午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

社会学を1年間やってみて学んだこと

東京での学会発表が終わり、慌ただしく家に帰ってきた。

 

社会学を大学院で学び始めて、ちょうど1年が経った。方法論的に混乱していて、「わけのわからない」学問だなあという印象は相変わらず強いが、学んだことを忘れないうちに書き記しておく。

 

そもそも、自分が社会学をやっているのは、根本的には自分自身がよりよく生きるためであり、毎日降りかかる問題の性質を社会的な背景を含めて「理解」したいからという実践的な理由がある。

 

日常の問題は、その人個人のパーソナリティに還元されるべきものと、社会構造に起因するものの2つに大きく分けられると思うが、後者に光を当てるというわけである。

 

私が社会学をやっていてよかったと思うのは、今まで心のどこかで「社会になじめない」、「社会でどうやって行きていけば良いのか」とか「社会」をブラックボックスにして、ひとつの大きなものとして考えていたものが、実際の社会は驚くべきほど多様で、しかも定義的にその「社会」には自分自身が構成員として必ず含まれるということだ。実際社会学をやっていると、自分自身が社会の一員である事実によって社会を対象化するのが想像以上に難しく、それゆえ分析が難しくなるということを経験する。社会は様々な属性の人々(年齢、性別、出身、教育歴、職業...)によって構成されている。日本社会は未だ共通の「社会規範」意識が強く、それを内面化してしまってそれに苦しむということもあるのかもしれないが、実際はその規範も年齢が下るにつれて揺らいでいるように見える。なぜなら、その規範を支える経済構造の方が変化しているからだ(注:私がそう思うというだけで、ここで厳密に議論するつもりはない)。

 

また、人々は驚くべきほど狭い世界で生きている。自分のまわりにいる友人たちは、おそらくあなたと似ている人だろう。その似ている人たちの基準の中で、自分の優劣を私たちは日々判定している。しかしその外側には、自分とはあまりにも似ていない人が存在しており、その似ていない人から見ればあなたは思いもしなかったほど優れているのかもしれないし、また逆に劣っていると判断されるのかもしれない。

 

人々の「意識」は、実態とはしばしばかけ離れている。人々は、日常で起きた少ない事実を自分がもともと持っている「偏見」とも呼べるような思い込みに結びつけ、 過度に一般化する。そしてその「偏見」は、周囲にいる似たような人々が同意することで強化される。(もっとも、この文章自体が今述べた偏見そのものであるのだが。偏見を退けるには、やはり統計学など方法論的に独立した手法を用いることが重要である)

 

社会は日々変化する。しかも一様に変化するわけではない。私は現在社会について人々が織りなすネットワークという見方をしているが、変化は全員に同じように訪れるのではなく、部分によってばらつきがある。変化しないところもある。

 

どうだろうか。こう言われるだけで、少しは楽にならないだろうか。現実の世界に、「こう生きれば必ずうまくいく」などという正解などない。これが社会学に含まれている含意ではないかと勝手に思っている。

 

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