午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

How to survive this world?

最近、天気が良くない。

キャンパスを歩いていると、新入生と思しき人々(中には高校の制服を着た子もいる)がきらきらと闊歩していた。

私は新歓生からチラシを渡されて苦笑した。

 

今日は、徹底的に研究に対するモチベーションが無かったので、Life Admin(日々の生活をまわすための事務的な事柄)を片付けた。そして本屋に行って自己啓発本を読んだ(今まで少しバカにしていたところはあったが、読んでみると結構面白い。特にビジネス系の本を読んでいると、ああ、研究も一緒だなあと思うし、むしろ学術書よりもわかりやすくて本質を掴んでいたりする)。

 

そこでふと思った、いつか自分も自己啓発本を書けないか、と。まあこれは冗談だが、せっかく身を張って、流れに逆らいながらもなんとか社会でサバイバルしようとしているので、この体験を後進のために書き残すのにはまあ意味があるかもしれないし、ないかもしれない。そう思って、学んだことをいくつか書いていこうと思うし、今後も何か会得したら書いていきたいと思う。それが本になって、爆発的にヒットして、ちやほやされるのがである。まあ冗談だが。

 

私が自己啓発本を書くとすれば、その対象は、「自分の人生を歩みたいけれども、一歩踏み出せない人」だろう。

 

まず、「自分の人生を歩む」とはどういうことか定義したい。

人は、究極的には自分の人生しか歩めないのは自明だが、それでもあえて「自分の人生」というときは、対義語として「他人の人生」が想定されるだろう。

「他人の人生」とは、おそらく「他人の欲求を充足させるために自分が(犠牲になって)生きる」ような人生のことをさすと思われる。

これは主観的な部分が多分に大きい。同じサラリーマンでも、「自分のために生きている人」と「他人の人生を生きている人」が隣の席で仕事をしていることは十分にあり得る。

つまりこれは意識の問題が大きい。

そこで、自分の人生を生きるとは、自分の欲求を充足させる人生を生きること、と定義しよう。では、自分の欲求とは何か。これがポイントである。

 

想像だが、おそらく多くの人たちは、自分が何を欲しているのか、わかっていないと思う。そんなバカな、と思うかもしれない。しかし、わたしたちの意識というものは、多分に社会的に方向付けられているものだ。あの服が欲しい。このバッグが欲しい。ちょっと待って欲しい。あなたは、本当にその服が欲しいのだろうか?なくても別に困らないものではないか?

 

自分が何を欲しているのかを知るためには、「それがなくても生きていけるか」と思考実験してみることである。大抵のものは、なくても生きていける。というか、必要ないから持っていない、ということは多い。となると論理的に、必要不可欠なものとは、すでに持っているものである。しかも、それは大切すぎて、意識すらしていないものだと思う。つまり、自分自身の「今」に目を向け、自分を自分たらしめている前提条件のようなものを深掘りするのはアリだと思う。

 

欲求とは、美しいものでもないし、かわいいらしいものでもない。wantというよりdesireのほうが近いと思う。欲望、渇望といった生々しくてどろどろしたもの。それが本物だと思う。

 

自分と向き合って、自分が欲しているものを理解する。これが「自分の人生」を歩むための必要条件である。しかも、自分が欲しているものは日々時間の中で変化するので、都度自分と向き合って意識をアップデートしていかなければならない。

 

ここで、2つのパターンが現れる。1つは、「自分の人生」と今の人生=社会的ポジションが一致する場合である。この場合はラッキーである。この先の文章を読む必要はない。2つ目は、「自分の欲求」と今の社会的なポジションが一致しない場合である。実際はこのパターンがほとんどだろう。

 

2つめのパターンを前にして大抵の人は、「自分の欲求」を殺す方を選ぶ。しかしここまで文章を読んだ人というのは、自分を殺しながらもどこか引っかかっている人だろう。

 

そうした人が、2つのズレを一致させるには、「えいっ」と今のポジションを突き破る必要がある。どんな場合でも、構造的に安定した均衡状態を別の均衡状態に移動させるのは難しい。まさに「意志の力」が必要である。しかし、この意志はどのようにして生まれるのか?

 

強い「意志」はどのようにして作るのか、私なりの方法を伝授しよう。ドラえもんの秘密道具に、「強い石(意志)」というのがあったのだが、そんなものを使わなくてもこれさえやれば誰でも強い意志が持てる。

 

まず、直感を信じよう。直感とは、本来誰しもが備えているものだ。「あ、この部屋なんかいやだな」とか、そんなレベルの動物的なものである。あるいは女性なら、その力で彼氏を吊し上げて弾劾裁判をしたことが一度はあるだろう。しかし大抵の人々は、それを意識せず、無意識のレベルにとどめている。よって、まずは自分の「直感」を意識の表層にあげるトレーニングが必要である。

 

しかしこの直感、結構常識や他人が言うことと違っていたりする。そこでおすすめしたいのは、まず、この直感を強く信頼することである。結局、直感は、一義的には(そして究極的には)信じるか、信じないかである。なので、まずはこれを強く信じよう。逆に言えば、信じられないなら、それはおそらく間違っている。

 

自分の直感が抽出されたら、次にやることは自分の中の理性、合理的な思考との議論である。これは少し説明を要する。直感という、俗に言う「右脳」的なものに、今度は自分の中の合理的な思考、「左脳」をぶつけるのだ。

 

直感は、ときとして間違う。合理的な理性だって、間違えることは多い。ただこの2つは、かなり思考方法が違う。それら異なる2つを弁証法的に発展させ、それが止揚されたものが「意志」である、と私は主張する。ふたつをぶつけあうことで、少しのことでは崩れない、強い命題が出来上がる。

 

直感は感情に騙され、理性は言葉に騙される。女性を誤魔化す時は感情に訴えればなんとかなる。男性は表層的な言葉の演繹で判断するので、理屈さえ通っていればどんなに非現実的なものでも信じてしまう。それはそのまま直感と理性の欠点に通じると思う(注:この女性的、男性的と言うのはあくまで冗談として捉えて欲しい)。そうした2つの思考パターンの欠点を自分の中でぶつけあうことで、お互いを補い合い、より純度の高いもの、すなわち意志の力を練り上げるのだ。

 

自分の中で意志の力が台頭してきたら、それは自分の人生を生きる第一歩だ。次にすること、それは他人、なるべく多くの人と議論することである。

 

独りよがりはいけない。自分にとって、一番近い人や、一番大切な人々が、自分にとって最良のアドバイスをするとは限らない。むしろ近いほど、あなたにそばにいて欲しいなどと無意識にバイアスがかかってしまうので、真実からより遠いもの、あなたの欲求からより遠いものになる可能性がある。

 

むしろ、自分が嫌いな人、生理的に無理な人のほうが自分のことを客観的に見ているので、キツいけれども非常に的を得た批判をしてくれるかもしれない(ただし、妬み謗りの類は完全に無視してよい)。

 

他人と誠実に議論を重ねれば、自分の中の認知の歪みも相対的に矯正され、意志はより真実に近づく。真実に近づくほど、意志の力は強くなる。個人的は、「本当のこと」の力にまさる力はないと思う。長い目で見れば、真理が必ず勝つと思う。この命題自体は、真理ではなくただの私の信念だが。しかしこの信念は、私の行動や自信の源泉になっていると思う。

 

そう、大事なのは真実を見極める力である。ここでアドバイスがある。他人のアドバイスを見極めるためのアドバイスである。

 

ある人Aが「これはXである」と言うとしよう。例えば、ホリエモンが「やりたいことをやったほうが人生うまくいく。やりたいことをやらないのは時間の無駄。嫌な仕事なんてすぐにやめたほうがよい。仕事なんていくらでもあるでしょ?」と言っているとする(適当)。

 

この発言を受けて、50代の男性サラリーマンが思い切って会社をやめたとしよう。そして何もかもがうまくいかず、悲惨な目にあった。このとき、責任はホリエモンにあるのだろうか?

 

大切なのは、アドバイスをしている人が立っている前提条件を考えることである。人は、その人が見えている範囲でしか物事を判断できない。ホリエモンといえども、ホリエモンが見えている範囲でしか物事を捉えられない。

つまり、ホリエモンのアドバイスは、本人が持っている属性や資源(強烈な個性、アイデア力など個人的な資質、生まれ育った環境、学歴などの社会属性、彼らが育ってきた時代)を背景として成り立っている。こうした諸変数の条件付きでホリエモンの発言は真である。

 

同様に、ある人AのアドバイスXとある人Bのアドバイスnot Xがまったく矛盾しているものに見えても、その背景まで考えれば、Aの社会的背景をa、Bの社会的背景をbとすれば、「aならばX、bならばnotX」となり、矛盾せずにひとつの情報となる可能性がある。まとめると、アドバイスを聞く際に重要なのは、その人の出自とアドバイスの結びつきである。

 

情報をうまく使うこと、これは生き残る上で非常に重要であると思う。自分の力で生きていこうとする人にとって、情報とは、非常に大事なものである。

 

しかし不安だからといって、というものに惑わされてはいけない。

噂とは、経験的に言って、似たような人々の密なネットワーク上で増幅されるものであると思う。そもそもその噂の根拠は、驚くほど根拠のないもの(あの人とあの人が話してるのを断片的に聞いて...)であったりする。そんなものに付き合うのは、はっきり言って時間の無駄だ。

 

噂は、Aという条件でしか当てはまらないものが、過度に一般化されていることが多い。たとえば、A大学で3年前でしか当てはまらないような不確かな情報が、今でも、全ての大学で当てはまるかのように囁かれる。しかしその情報は、かつてはA大学という条件のもとでは真であったかもしれないが、今となってはもはやニセ情報である。

 

ではどうすればよいか?それは、一番の正攻法、つまり一次情報、本人や書類上のオフィシャルな情報を基礎にすることである。人づての話の価値はゼロであるとはっきり言おう。なぜなら、もしその情報が間違っていた時、一次情報を元にしていれば本人や組織に正式に抗議できるが、不確実な情報を信じて不利益を被っても誰のことも責められないし、むしろ影で引っかかったな、と笑っている人もきっといるだろう。

 

そして、正しい情報には価値がある。例えば、あなたが服を売るとして、その服の原価は本当は100円だとしよう。そのことはあなたしか知らない。しかし世間は、その服の原価を10000円だと誤認している。そうしたことはよくある。そこで、あなたは本来からいえば法外に高い値段でその服を売って儲けることができる。賢い人は知っている。

 

では、どうやってそうした正しい情報、のようなリソースを得ることができるのか?それは、コストを払うことである。ああやればできるだろう、と知っていても、実際にやる人は少ない。そういうときはチャンスだ。コストをかけて、それを手に入れたとき、あなたの生き残る力は強くなる。

 

ところで、これは社会のサバイバルガイドの序章だが、このサバイバルされるべき社会は、幸運なことにゼロサムではない。つまり、誰かが得をした分、誰かが損をするというゲームではないのだ。むしろ、協力こそがカギである。そもそも私の意見では、社会とは、その成員が生き残るために生み出された協力の装置である。社会の成り立ちからして、協力なのだ。それは頭のどこかに入れておいたほうがいいと思う。

 

自分を貫くこと。これは意識的にやるというよりも、自分の人生を生きると必然的にそうなってくるものだと思う(岡本太郎は違う、と言うかもしれないが)。そして、貫くためには、困難と日々闘わなければならない。それらは別に、意識の高いスーパーマンでなくてもできる(よくある元マッキンゼーのXXが...みたいな枕詞がなくても。というか英語学習とかの本で、マッキンゼーとかいう肩書きって必要なのか?笑)。それを、ダメダメで意識低い系男子の私が身体を張って証明していきたいと思う。

 

自分を貫く生き方というのは、派手な成功に彩られているものばかりではない。私のように、地味に隅っこの方でぼーっとしている生き方もアリだと思う。

 

(同じ内容をnoteにまとめました↓)

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