午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

ふとした瞬間、ささいなことで落ちる。

何もかもが厭になる。 

 

雨が降っている。身体に水気が溜まる。

虚しくなる。人間関係が面倒になる。

親くないつながりはもちろん、親しいつながりでも維持するのは難しい。

 

なぜ、人は人を求めるように定められて生まれてきたのか。

孤独に耐えられるようには出来ていないのか。

 

空っぽである。何もない。

受け入れてくれる人もいない。

 

日が落ちると、思いつめてしまう。

誰も、自分さえも、自分のことを救うことはできない。

そんなときは、酒を飲んでやり過ごすしかない。

 

かつて、人間がまったく出てこない小説を書こうとした。

しかし、書けなかった。

 

日常に、惰性に、自分の魂が抑圧される。

きっと自分は、何かを叫んでいる。

 

無限に続く孤独のなかで、私は私の言葉を忘れてしまう。

いつの日か、この苦しみから逃れられる日が来たら、そしてその日が続いたら。

だがそれは、果たして私と言えるのだろうか。

 

人間にとって最大の不幸は、自分自身を意識の対象としてしまったことではないだろうか。

所詮、人間の行動原理なんて、人間にはわからないと思う。

 

みんな仲良く楽しく暮らせないのは、競争や搾取ばかりの悲惨な世の中が生まれてしまうのは、神様の設計ミスだろうか?

 

 

宇宙から、時間を行き来して、人類の歴史を他人事のように眺める。

何度も同じ日に雨が降り、同じ人と会い、別れ、悲しみ、そして傘を無くす。

だが残念なことに、私たちはあの日雨が降った理由を理解できない。

 

生命は皆、尊い

しかし「人の命は地球より重い」というのは嘘だ。

地球の方が断然重い。

 

命とは、軽いものである。

簡単に人は死ぬし、この人死んでしまえばいいのに、と思うことも普通にある。

自分だけが善人だとは到底思えない。

 

問題は、そんな自分や人間存在を受け入れながら、よりよい社会を創ることだ。

自分に悪的な部分があることと、よい社会を創ることは全く矛盾しない。

 

「悪」とされる部分にこそ人間の本質があり、矛盾の中にこそ力がある。それは別に、人間の本質が悪であると言っているわけではない。

 

自分のことを善人だと思っている人間がいるとすれば、それは狂気だ。

それでも人間の内なる「善」的な部分を信じようとする自分は、やはり狂人なのだろう。

 

雨は降る。自分の意志とはまるで関係なく。

大切なのは、よく見ることだ。

それが、つまりは人間らしく生きるということである。