午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

「継続は力なり」という福音

にわかに、研究に対するやる気を取り戻した(とはいえ、明日自分が何を言っているかはわからないが)。

日が長くなってきたからだろうか。礼文島の論文を離れて、新しく分析したデータを元に新しい論文を書き始めた。

 

学校長であった祖父が、表題の「継続は力なり」という言葉を毎日のように口にしていた。口にしていただけではなく、事あるごとにその言葉をアルバムなどに入れていた。

 

祖父は数年前に他界した。

今はとなっては、なぜ祖父がその言葉を気に入っていたのか、一体何を継続していたか知る由もない。彼が生前何を考えていたのかはひとつの謎だが、結局遺品であった膨大な本の書き込みの中からも、彼が何を考えていたのかはわからなかった。

 

6年前、普段笑いを絶やさなかった祖父に、人生に迷っていた学部生の私が生きることの意味を尋ねた。

祖父は、東京にいた私に次のようなメールを送ってくれた。

 

人は「人生と生活」相反しながら、しかし表裏一体の関係を持つ二つの側面に支えられて生きている。「人生」は意志の自由を求め(自由意志の確立 すなわち存在の自由を求め)「生活」は客体(自己の存在を含めた他者)の生存維持を求め続ける。この二つの側面は、個人の中では相反する存在としてあり、個の生きる苦悩としてとらえる事が出来る。その苦悩は、二つの側面のバランスをどう維持するかであり、生きている限り続き、そして君の言う「良識」によってかろうじて安定を保つ事ができる。さらに、生きることは、時間の認識の中にあり何事も時とともに変化・進歩するので、苦悩からのがれられないのだ。(原文ママ

 

中学生のとき、学習塾からの帰りの車内で、祖父とはよく資本主義の矛盾などについて議論した。自分が大学生になってたまに帰省して、最近ニーチェマルクスなどを読んだ、と言うと喜んでくれるただひとりの親族が祖父だった。

自分は、祖父の一番の後継者だと内心思っていた。

 

そんなことも忘れてしまって、大学から家に帰る途中、電車に乗って車窓から景色を眺めていたときだ。

お告げのように、「継続は力なり」という言葉が聞こえてきた。

 

これは正しいか正しくないかではなく、信じるか信じないかの問題である。

 

信念には物語が必要である。どんな宗教にも、科学でさえ、ストーリーは要請される。

そして、このストーリーには、時を超えて祖父から引き継いだ自分の遺伝子があり、意志がある。

 

祖父は、終戦直後で家の商売が傾いたころに、どうしても大学へ行きたかったらしく、親を説き伏せ、1年間働いたのちに大学で学んだ。

 

学問や文学を愛する人間であったのだと思う。それは彼の洞察や蔵書を見ればわかる。

(なぜか、内田百間を愛して止まなかったらしい。『贋作 我輩は猫である』を、本物より面白いと言っていた)

 

私ひとりではない。これは時を超えて、彼の営みでもある。そんな気がして、私は電車内で少しだけ嬉しくなった。

 

おまけ:

試験的に、noteにて以前書いた短編を販売しています(100円)。ぜひご一読ください。

note.mu