人生にはきっと晴れている時期もあれば、雨が降る時期もある。
雨が降る日に、もし晴れていたらあんなことができるのに、こんなことがしたいのに、とは考えない方がよい。
同様に、人生における「時期」=自分が置かれた社会的条件というのは、自分ではコントロールできない。
「雨」が降る時期はそれなりの楽しみ方にシフト(適応)した方がよい。
天候と違って、人生の「天気」は見えにくい。
特に個人化が進んだ近代以降、「天気」=時期は人によってずいぶん異なる。
他人と「天気」=時期を共有できず、自分が「雨」の時に限って他人の「晴れ」をうらやんだり、なぜ自分だけ「雨」で家にこもらなければならないのだと地団駄を踏んだりする。
しかし、振り返れば自分自身にも「晴れ」の時期はあったはずだ。
そうしたときに他人の「雨」の可能性を考えたりはしただろうか?(おそらく、していないと思う)
「晴れ」の日には晴れの、「雨の日」には雨の過ごし方がある。
そして、同じ「雨」の日でも、仔細にみれば小雨の日もあれば大雨の日もあるなど、変化に富んでいるはずだ。
最近、「雨」の日が続いている。
おまけに傘をどこかで無くしてしまった。
今日は、そんな「雨」を避けるようにして、大きめの本屋に飛び込んだ。
そこで、一冊の本に出会った。
『うしろめたさの人類学』と書かれたその本に、立ち読みの段階で引き込まれて、大学にも図書があるにもかかわらず、思わず買ってしまった。
バイトの帰り道、北野エースでいつもより少しだけ価格帯の高いビールを買った。
名古屋駅で、明後日の選挙のために動員されたジャズバンドに出くわして、生音を久々に聴いた。
たったこれだけのことだが、私はこれらの証拠をもって、今日を「いい日だった」と断定したい。
日常に潜んだ「詩情」を大切に。