午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

人生の根底にある虚しさ

例えば素敵な女性と出会った、他人と激しく対立した、生きるのに精一杯で必死に仕事をした、疲れて精神を病んでしまった...これらの「大きな出来事」の合間に、無数の何もない日、おそらく1ヶ月後にはまったく記憶から抜け落ちるであろう日が挟まっている。

 

そうした日、ただベッドに寝転がってボーッと天井を眺めていると、ほんの一瞬でも自分の奥底にある「虚しさ」を感じる。これは覗いてはいけないような深淵のようなもので、普段の私だったらすぐに見なかったふりをして通り過ぎる。

 

しかし、今日はこの「虚しさ」を正面から見つめてみた。

(1)なぜ、自分はこの感覚、あるいは感情を抱くのか?その根源は何か?(2)どうすれば感じなくなるのか?

 

まず、(2)の方から考えてみた。短期的に感じなくするには何かに打ち込むだとか誰かとの恋に夢中になるだとか、いろいろ思い浮かぶが、ではそれは果たして老いて死ぬ直前までできるのか?そしてこれは「正しい」対処法なのだろうか?

 

もし、自分が過去に女性とうまくいかなかったことの原因の一部が自分にあると受け入れるならば、その原因は、自分の「虚しさ」を相手の存在で埋めようとした=自分の抑圧下に置こうとしてしまったことにあると思う。少なくとも、学部時代、そういうことがあった気がする。

しかし、「虚しさ」はそれほど強い吸引力を持つ真空状態のようなもので、自分自身それをコントロールするのは難しい。しかもこの「虚しさ」は、他人と共有してしまう(と思い込む?)ことができる怖さがあるように思う。

 

「虚しさ」に対する正解は、ただ受け入れることであろう。しかし口でいうほど簡単ではない。「虚しさ」は結局、「自分はなぜ生まれてきたのか?」「人類はなぜ誕生したのか」というところに行き着く。これが根源的な問いかけであり、その裏には「意味などないのではないか、無い方がよかったのではないか」という悪魔のささやきにも似た反問が含意されている。

 

自分が今やっている社会学をはじめとした科学も、あるいは芸術も、「何も無い」現実に無理やりにでも何か枠組みを作ろうとする試みであると思う。「何も無い」というのはゼロという意味ではなくて、「全てが在る」のと実質的には同じことである。

 

ただ根源的には何もなくてかつ全てがある状態なのだから、いくら頑強な枠組みを作ろうとも、結局は瓦解して、何もなくてかつすべてがある状態に還元されてしまう。人間の営みとは、そこから逃れようとする苦しい試みであるような気がする。

 

結局、(1)にたどり着く前に、学部時代にみつけたささやかな解決方法、「美味しいご飯を食べる」「運動する」ことを思いついた。

ここで考えるのをやめることにする。