つながりの重要性をひしひしと感じる。それは別に、自分がソーシャルキャピタル論をやっているからではない(逆は成り立つかもしれないが)。
自分が苦しむほど、自分になる。
言葉から表層的で形式的なものが濾過されて、純粋な魂に近づく。
「他の人と比べて」自分がどうかはわからないが、質的には、自分は何だかんだぎりぎりのところで他人とつながっていると思う。
最近、修士論文提出直前に大学を辞めてしまった人がいた。
彼は私の感知しない間にそうなってしまったが、彼にもそんなつながりがあったらそうはならなかったのかもしれない、と思う。
大切な人ひとりくらいならまだしも、そうでない人をも助けるのは随分前に諦めた。
だから私は黙ってその事実を受け取るしかなかったし、そのほうが良いだろう。
それが、「コミュニティが解放された(Wellman, 1979)」都会に暮らす私たちの日常生活なのかもしれない。
Wellman, B. (1979). The community question: The intimate networks of East Yorkers. American journal of Sociology, 84(5), 1201-1231.