東京で4年半暮らしたあと、島で2年間過ごした。
私は学生時代、いわゆる「資本主義」、グローバリズムというものを毛嫌いしていた。
東京で生活していて、労働市場というように、人間も含めたあらゆるものに値札が付いている社会が嫌いで、カール・マルクスやカール・ポランニー、ボードリヤールなどを読んでいた時期があった。
今でも、人間の能力などをあたかも物のように売買するのは好ましいことではないとは思う。
しかし、島という、どちらかといえば貨幣を媒介しないやりとりの多い社会で暮らしていて思うことがある。
それは、貨幣はまぎれもない人類の「発明」であるということだ。
よく、資本主義経済に対抗するため、シェアリングエコノミーのような「共有」を神聖化したような文脈を見かける。
だが、共有には共有の、贈与には贈与の「だるさ」があると思う。「だるさ」とは、その交換行為に内在する厳然としたシステムだ。
あまり書きたくはないが、何かを施されると、何かを施さなくてはいけなくなり、そういうのはあまり好きではない。
どんな行為の裏にも、生存のためのしたたかな利己的戦略がある。もはや好みの問題になるのかもしれないが、やはり資本主義社会を出自に持つ自分にとって、私有財産制を否定することはできない。そして、民主主義社会はやはり、私有財産制のもとでこそ力を発揮すると思う。
お金という「発明」を否定せず、資本主義の枠組みでより良い社会を築きたい。