何かを捨てるということは、意外と簡単だ。
人生をやり直したかったら、環境を思い切り変えればいい。
私自身、東京暮らしを捨てて日本最北の離島で仕事を始めた。
しかし、どうしても捨てることのできない、厄介なものがある。
それは、他でもない、自分自身である。
学生時代、アフリカの奥地まで旅をしたとき、自分のすぐ後ろから「自分」がぴったりとついてくることに気が付いた。それは世界中、どこにいても、空想の世界ですら追いかけてくる。
この「自分」に、自分自身は辟易としている。少し説明させていただくと、この「自分」は、非常に回避的で依存的、おまけにひねくれていて、常にまわりをバカにしていたずらっぽく笑っている自信家だ。
つまり、「自分」は、学校・文部科学省とか大手企業・経済産業省、道徳の教科書や就活セミナーが求めるような「人物像」とはおよそかけ離れているのだ。
この「自分」について、非常に悩んでいたし、今でも悩んでいる。本当にこんなのでいいのか、うまく「適応」しようとしたこともあるし、適応しなければいけない罪悪感というものが根強くある。
卑近な例で言えば、職場でうまく電話応対ができなくて(より正確に言えば電話を取りたくなくてどんなに偉い人よりも後にしか出ない)、そんな自分を責めるつまらない自分がいた。
しかし、日本最北の離島で2年間暮らしてみてわかったことがある。それは、自分は、自分だという、なんとも陳腐な結論だ。
最近東京に帰った時、明日からアフリカへ行くという前の会社の同期と1年ぶりに会ったのだが、彼女は私が昔と比べて少しも変わらなかったことに喜んでくれた。
そのままでいてほしい、これ以上に有難いセリフが他にあるだろうか?
ダメでもいい。でもダメダメはいやだ。だからやるべきことをやる。この葛藤をしながら生きている自分。
嵐が来たら、終わるまで耐えるしかない。
嵐が去ってみたら、案外美しい世界が見えてくるのかもしれない。