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午後の雨

らくがき未満

資本主義社会の中にいる私

私たちは普段、自分たちが資本主義社会に生きていることをあまり意識しない。それが意識にのぼるのは、大抵、貧困や格差、あるいは消費社会が生み出す矛盾や虚しさなど、「資本主義の負の側面」を意識しなければならない状況に置かれた場合であり、そう言った場合に資本主義は自分たちの外にあるものとして、しばしば化け物のように対象化される。

 

フランスの社会学ブルデューの『資本主義のハビトゥス -アルジェリアの矛盾-』を読了した。本書は、資本主義が個人や階級に方向付けする「ハビトゥス」、つまり未来に対する合理的な計算や思考、投資や貯蓄などの性向がいかにして形成されるかを、前資本主義的社会であった1960年代のアルジェリアを対象にして考察した本である。

 

本書を読み進めつつ、自らの内側にある「資本主義のハビトゥス」を嫌でも意識せざるを得なかった。それらは、未来志向、現在を未来のための道具とするような傾向も含まれている。現代的に言えば、個人に置ける「キャリア形成」、あるいはファイナンシャル・プランニングなどという考え方などがそれに対応するものとして挙げられるだろう。

 

私がどうしても受け入れられないのは、この資本主義の未来志向なのかもしれない。仮に私が、現在の自分の貯蓄や収入から「下流老人」になる将来を想像し、生きているとすれば、その時点で既に私は「下流老人」の「今」を生きていることになる。

 

「経済的な」「生産」のために自分自身も社会システムの一部分として組織化される現状に、私は窒息しそうになっている。なぜなら社会システムは、それ自身の存続、再生産を目的としており、私のなかの「私」はどこかに置き去りにされかねないからである。

 

アンソニー・ギデンズは、現代の状況を、「大きな物語」が終わったあとの「ポスト・モダン」の時代ではなく、近代(モダニティ)の徹底化の時代、と指摘した。

 

頭のてっぺんからつま先の下まで資本主義化された私は、東京やニューヨークなどの「中心」のみならずアフリカの奥地や礼文島などの「周縁」までも徹底的に資本主義化された時代を生きなければならない。

 

もはや、資本主義を否定することなど不可能な企てである。実際、資本主義の枠組みの中で「資本主義の否定」を叫ぶのは、滑稽な感じがする。それは、我々の意識の隅々にまで入り込んでいるからであり、私は資本主義「でない」状態をもはや想像することすらできない。

 

そんな状況で、私は窒息しそうになっている。漠然と「社会に馴染めない」と思いながら、なんとなくその日を過ごしているのである。

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