午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

障害者問題について23歳が考えてみる

久々に考え事をしたので、書き留めておく。

最近、身近な人が会社を辞めた。「発達障害」「ADHD」だったそうだ。病院で診断されるまで、自分がそうであるということ自体、彼/彼女は知らなかったらしい。彼/彼女は、診断時に障害者手帳を取得し、今後はその枠で仕事を探すという。そして連絡がつかなくなった。

 

内心、とても悔しかった。というのも、私が見る限り、彼/彼女はいたって普通で、少なくとも「障害者」ではないと強く思うからだ。彼/彼女が自身がそうであることの論拠としてあげていたことも、冷静に考えれば誰でも当てはまりそうなことばかりだ。それなのに、もうそちら側へ行ってしまうのかと思った。

 

そちら側の世界。私はとある福祉施設バイトしていたことがある。施設にはいわゆる「精神(障害)の人」たちがいた。現実問題、実務レベルにおいて施設にとって彼らは操作の対象(object)である。

施設で彼らと交わる経験の中で、様々なことに強い対して違和感を覚えた。彼らのどのあたりが障害なのか?障害(disability)とはつまり病気(disorder)のことなのか?

 

障害者とはつまり、日常生活、社会生活を送る上で、障害(barrier)がある人ということだろう。つまり、社会生活があるから障害者がいる。では、障害者があふれるような社会生活とは、果たして正しいのだろうか。するべきことは新しい福祉施設の設置や障害者雇用促進法の推進ではなくて、社会生活、その大部分を占める雇用、生産体制を矯正することではないのか。

 

低気圧で体調が悪くなる。晴れの日は気分が高まる。人間には、バイオリズムがある。漁師は海が時化っている日は家にいる。凪(なぎ)ているときに大いに漁をする。

もう少しだけ、人間が叫ぶ心の声のようなものを回収した労働の形を真剣に考えるべきではないか。「障害者」がオブフェクトではなく人間であるとの前提に立てば、自ずと答えはどこにあるのかが見えてくるはずだ。