暇なので、最近のニート生活について綴ろうと思う。
朝は9時に起きている。平日も休日も、だ。今の自分にとって、平日と休日の間に境目はない。会社員時代は毎朝6時に起きて、7時前には家を出ていた。今は外に出る必要がない。生きることが仕事だ。
起床して、ストレッチをして、コーヒーミルで豆を挽き、ハンドドリップで丁寧にコーヒーを淹れる。時間がなくてコーヒーメーカーに頼っていた会社員時代とは違う。昨日昼に近くのパン屋で買っておいた有機天然酵母を使ったレーズンパンをスライスして、ゆっくりとした朝食を摂る。食べ終えて食器を片付けると、ピアノの練習をする。学生時代つまらないと思っていたバッハの良さを今更分かった気分になる。練習を終えると、近所のスポーツジムで泳いでから、大学の図書館で本を読む。飽きた頃カフェに行き、人生について憂鬱な思考を巡らす。自分が生きているのか死んでいるのか、正直なところよく分からない。そんな生活が続いている。梶井基次郎『檸檬』の描写を思い出す。
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終
圧 えつけていた。焦躁 と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔 があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。」「時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。」
「ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。私はまたそこから
彷徨 い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち留 まったり、乾物屋の乾蝦 や棒鱈 や湯葉 を眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町を下 り、そこの果物屋で足を留 めた。」
今はあまり将来のことについては考えないようにしている。とにかく、今は働きたくない。それだけだ。