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午後の雨

らくがき未満

搾取される身体

労働とは何か。会社員として、デスクに座りながらふと考える。パソコンから目線を外すと、他の社員たちが忙しく電話、打ち合わせ、プリンターで印刷しているのが見える。私は今、白いカッターシャツを着ている。他の社員もそうだ。それはこの国の民族衣装のようなものだ。

 

たまに窓の外を見る。新卒の私は、1日の間、もっと言えば週7日のうち5日は、自席という一点から動くことがほとんどない。GPSで見ると、1日10時間、身体の座標は固定されている。窓から東京の清潔なビル街が見える。なんのために働いているのかとため息をつく。そう考えている間に、私は上司に意見を求められる。スピードを要求される。プレゼンテーションのためのわかりやすいフレーズを、お客様のための成長を、付加価値の創造を、イノベーションを押し付けられる。私の生命力は生産に吸い取られる。生産されたものは、消費として文字通り消えてゆく。消費の後には、再び生産の必要(ニーズ)が待っている。

 

パソコンを見ながら、なんのための成長か?競争か?イノベーションか?とふと考え込んでしまう。ものが余っているが故に、「いかにしてものを売るか」を命をかけて競い合い、貧困に陥るという逆説は、なんとも興味深いけれども、自分が付き合わされるとなると話は別だ。私は時間に対して給料をもらっている。それは、わずかな金と引き換えに、自分の命を細切れにして差し出していることに他ならない。

 

価値は生産の中にあるのか、消費することで自分の価値を確かめるのか(ちょうど広告が謳うように、「わたしらしさ」を消費によって感じるのか)。消費の後、残るのは、存在の根本的な虚しさではないのか。本当の喜びは、自分の存在を確かめるための生産から湧き上がるのであって、「他人のための」生産である分業は本人にとって苦痛しか引き起こさないのではないか。そして、余暇はあくまで「余」であって、当人が心から休まることはない。それを消費で忘れようとして、うまくはいかなくて、資金がなくなって、また生産の時間奴隷になるのではないのか。

 

本当の価値はどこにあるのか?おそらくそれは、自分の心の中、目の前に広がる景色の中にあって、決して記号的、抽象的な「未来」の中にはない。

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