見たくないものを見てしまう。
目をそらしていたものに反逆される。
抑圧していた心の声。
自由に動き回る精神。
欲求が、真理を求めて飛び跳ねる。
本当のこと。嘘を溶かした、むき出しの実存。
丸い真実に、四角い蓋をされた社会。
自分からどんどん離れていく「自分」。
向かう先は、自分がもっとも求めていないもの。
それを昔の思想家たちは「疎外」と呼んでいたのだ。
月が綺麗な夜に、黒い海に溺れそうになる。
方向感覚など、とうの昔に失っている。
もがけばもがくほど、泡が出るばかりである。
暗闇に沈む。
しかし、一筋の光が見える。
自らの確信。根拠のない、強烈な光。
そう、心の声を聞くのだ。
稚内に着いた。日本最北端であるこの街につくと、もの哀しい気分になる。人口3万人の港街で、果てしない孤独を感じる。
今、古びたホテルの一室で、ジャズを聴きながらこの文章を書いている。眠気をこらえながら、何を書きたかったのかと記憶を巡らす。
気分がいいと思った矢先、どん底まで気分が落ち込むことがある。今がまさにそんな状態だ。
人生に絶望する。数分前まで、自分の人生は幸福だと思っていたのに。その間、具体的な何かがあったわけではない。強いて言えば、昼から夜になったということだ。
自分は、一体何を追い求めて来たのか?それは、かつての友人の偶像か?
自分は、自分の力を信じている。
世の中には、友達がいて、結婚して、幸せになりたいと思う人が大勢いる。そのような小さな幸せ(petit bonheur)はとても素晴らしいと思う。
しかしどうやら、自分はそれだけでは満足できないらしい。
「100人いたら、ひとりくらい、自分を超えた大きなものに人生を捧げる人間がいてもいいじゃないか」。
自分が求めているもの、それは精神の自由と思考の独立である。その先に、独創性があるのだと思う。独創性とは、生命の源泉に他ならない。そして、独創性が私を行動へと駆り立てる。
私は結局、時折自分を襲うニヒリズムを退けるような「生きる意味」を作り出そうと、もがいているのだ。
「自分は何者なのか?」
馬鹿げた問いの立て方だと思う。しかし、問いかけが頭から離れない。
自分は島で生活に埋没していた。それは退屈でも、都会に帰ってから思い出せばとてもキラキラと輝いていた。島で炭に火をつけていたことなど嘘のように、すました顔をして、東京のスターバックスでMacBookを開いている。本当に、何事もなかったようだ。
取り残されたのは、むき出しの自分自身。肩書きやコミュニティの保護が一切ない、都会から遊離した自分だけである。
昨日、フランスでドクターを取ろうとしている友人と会った。彼女は東京は居心地が悪くても、トゥールーズは好きなのだ、と言っていた。それに比べて、私は未だ安住したいと思う場所を見つけていない。そのような場所など自分にはないのだと決め付けている。
自分の位置を知るためには、起点となる場所がいる。私にとって東京は、そのような場所である。学生の時に思い描いた自分自身と現在とを見比べてみることで、どの方向に進んでいるのかをなんとか把握しようとするのだ。
華金を終えて、土曜日の正午近くに目がさめる。
窓を開けて、空が青いことを確認する。
電気もつけないまま、ソファに座り、IPAの瓶を開ける。
ビールの味が、舌を通して心地良い憂鬱感と溶け合う。
ベッドの上に再び寝転ぶ。平日の倦怠感を未だに引きずっている。
くだらないと思いながら、昨日の飲み会のことを思い出す。
「いつか、自分の人生を劇的に変えてしまうような、素晴らしい女性に会えないだろうか」
天井を見つめながらそう思う。
一方で、「別に、昨日の飲み会のようなくだらない生活でもいい」とも考える。
自分は、人生を楽しんでいる方だとは思う。だからこそ昔から「死にたくない」という思いが人一倍強かった。それは、お気に入りの映画が終わってほしくない感覚と似ている。
自分の人生に向けて語りかけてくる声は、「死にたくない」という強い感情なのだ。
死ぬ前に何かをしたい。何かを残したい。自分はいつか必ず死ぬ。
動かしがたい事実が、私の人生に「意味」を要求する。
ベッド脇の壁にもたれかかった。
音楽を聴きながら、静かに2本目のビールの瓶を空けた。
雨が降ってきた。私はジャズを聴きながら、紅茶を手元に置いてゆっくりと本のページを繰っていた。曲の合間にかすかに屋根に当たる雨の音が聞こえてくる。
本を閉じると、目の前に現れたのは礼文島だった。もうすぐ5月。礼文島は観光シーズン本番へと突入していく。
リゾートバイトという仕事があるらしい。島にきて驚いたのが、どうやら沖縄のサトウキビ、愛媛のみかんや島の昆布、あるいは旅館などをバイトしながら渡り歩いている「層」がいるという事実だ。調べたところ、それなりに稼ぎはいいらしい。
島に住んでいて、意外と会うのが沖縄の人だ。礼文島と西表島、このあまりにも距離的に離れたふたつの島は、「中心」-「周縁」というくくりで見ると同じようなものになる。
そんな人たちの存在は、学校の教科書には書かれてなかったし、親も教えてくれなかった。社会学的に面白い存在だと思い、Google Scholarでためしに調べて見たが、そういう「層」を社会学的に研究した文献は見当たらなかった。
社会への「適応」。これは果たして何を意味するのだろうか。知り合いのアメリカ人に「社会人」の英語表記を聞いてみたところ、彼はその概念自体を理解できなかった。「社会人」という表現は、多分に日本の歴史的・文化的状況と紐づいているということだろう。
「社会人になる」ことが社会化の正当な方法だとしたら、他の方法で社会化した人々はどうなるのだろうか。
リゾートバイトをしている人にはいったい何が見えているのだろう。日本の社会の多層性に、驚きを隠せない毎日である。
少し、自分の過去を振り返ってみようと思う。
自分は、記憶の中にひとつの神話を持っている。それは20歳のときの話だ。
大学3年の当時、軍靴ならぬ就活の足音が聞こえてきたころの話。
20歳になった私は、はじめて自分の死、自分の社会的役割、そして人生の意味について自覚し内省した。突然、「いい大学に行っていい企業に就職する」自明性が揺らいだ。
その時、自分自身の自明性、生きる意味などがあっけなく瓦解した。何も信じられなくなった。デカルトに出会う前から方法的懐疑をはじめた。それはさながら水に溺れるような苦しさを伴っていた。
とにかくゆううつだった。とにかく必死だった。とにかく苦しかった。そして大学がある三田の近く、東京タワーすぐそばの大きな公園で、私はひとりの女性と知り合った。いや、本当のところは彼女は大学の同級生だった。
彼女は、私が今までに見てきたどんな人間とも異なっていた。彼女は自分の心で物事を語り、自分の言葉で対象を描写し、自分の意志で世界をまっすぐに見据えていた。彼女の発する言葉は、すべて彼女の心の奥底に繋がる重みがあった。彼女は本物の天才だった。その大きすぎる才能ゆえに、彼女は内面の海で溺れているように私には見えた。
彼女は、その存在そのものによって、私の既存の人生を脱構築していった。それは刺激的で知的な営みだった。彼女は存在の自由の中に生きていた。私は彼女に対して強い憧憬を抱いた。
大学を卒業後、ロンドンに行ってしまった彼女のその後は知らない。彼女は嵐のように私の前にやってきて、そして消えてしまった。それから4年。私自身はもがいてはいるものの、何もつかめていない。
「私が有名になったら、私のことを書いて」
小説家を目指して三田文学に通っていた私に対して、彼女はいつもそういっていた。これから私の、そして彼女の人生がどうなるかは、いまのところ誰も知らない。