午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

自分の中の神話

少し、自分の過去を振り返ってみようと思う。

 

自分は、記憶の中にひとつの神話を持っている。それは20歳のときの話だ。

 

大学3年の当時、軍靴ならぬ就活の足音が聞こえてきたころの話。

 

20歳になった私は、はじめて自分の死、自分の社会的役割、そして人生の意味について自覚し内省した。突然、「いい大学に行っていい企業に就職する」自明性が揺らいだ。

 

その時、自分自身の自明性、生きる意味などがあっけなく瓦解した。何も信じられなくなった。デカルトに出会う前から方法的懐疑をはじめた。それはさながら水に溺れるような苦しさを伴っていた。

 

とにかくゆううつだった。とにかく必死だった。とにかく苦しかった。そして大学がある三田の近く、東京タワーすぐそばの大きな公園で、私はひとりの女性と知り合った。いや、本当のところは彼女は大学の同級生だった。

 

彼女は、私が今までに見てきたどんな人間とも異なっていた。彼女は自分の心で物事を語り、自分の言葉で対象を描写し、自分の意志で世界をまっすぐに見据えていた。彼女の発する言葉は、すべて彼女の心の奥底に繋がる重みがあった。彼女は本物の天才だった。その大きすぎる才能ゆえに、彼女は内面の海で溺れているように私には見えた。

 

彼女は、その存在そのものによって、私の既存の人生を脱構築していった。それは刺激的で知的な営みだった。彼女は存在の自由の中に生きていた。私は彼女に対して強い憧憬を抱いた。

 

大学を卒業後、ロンドンに行ってしまった彼女のその後は知らない。彼女は嵐のように私の前にやってきて、そして消えてしまった。それから4年。私自身はもがいてはいるものの、何もつかめていない。

 

「私が有名になったら、私のことを書いて」

小説家を目指して三田文学に通っていた私に対して、彼女はいつもそういっていた。これから私の、そして彼女の人生がどうなるかは、いまのところ誰も知らない。

「生きづらさ」の正体

生きづらい。ひとりの若者として、漠然とそんなことを感じていた。私だけではない。街を歩けば、テレビをつければ、SNSをのぞけば、そこには「生きづらさ」の言説が溢れている。しかし、それはなぜだろう?私は、ずっとその正体について漠然と考えて来た。

 

生きづらさ。その特徴はまず、見えないことにある。原因がわからないにもかかわらず、確かにそれはある。時に「死にたい」と思うほど深刻で強力なものであるにもかかわらず、それが何なのかがわからない。

 

ひとつ思いついたのは、その正体は「恐怖」ではないかという仮説だ。

 

下流老人」という言葉が世間を騒がせた。ホームレスを見た若者が、真剣に「自分もそうなるかも知れない」と言う。問題は、いつ、どこで、誰がそうなるのかがわからないこと、そしてその対象が個別であることだ。それはあたかも、突然後ろから肩を叩かれて、そのままストンと「自分だけが」落とし穴にはまってしまうような見えない恐怖だ。そんな恐怖を抱えながらも、気づかないふりをして、笑顔で生活している。そして、先に落とし穴に落ちた人を見て、「自己責任」だと非難する。備えが足りなかったのだ、と。

 

相対的貧困」という尺度がある。「見えない貧困」という言葉がある。社会は制度疲労を起こしながらも、脱落した人は「負け組」のレッテルを恐れ、何ごともなかったように繕うのである。

 

現代の福祉国家は勤労を前提としている。その上で、働けない人を保護する。現実には、雇用は地盤沈下しているにも関わらず、あくまでその建前を守ろうとするあまり、そこからこぼれ落ちた人を非難する。余裕がないのだ。

 

そんな社会は、楽しいのだろうか。

戦争について、最近思ったこと

朝鮮半島関連の最近のニュースを見て、なんとなく思ったことを書き留める。

 

今、ニュースなどで、「北朝鮮に向かってアメリカが先制攻撃する」「朝鮮半島で戦争が起きる」などと煽られている。ネットニュースにつけられたコメント欄にも、戦争への願望で溢れかえっている。

 

「戦争はいけない」という。日本が最後に戦争をしてから何十年も経っている。

私たちは戦争を知らない。

 

もちろん、私は戦争はしたくない。仮にそういった状況に我が国がなる場合、投票権を持つ一国民として、全力で反対したい。

 

しかし、私の心のどこかに、戦争を渇望する自分がいるのもまた事実である。

それは清潔で息の詰まりそうな現実社会からの逃避、日常が破壊されることへの潜在的な願望、そういったものたちだ。おそらく、ネットニュースに書き込んでいる人たちも似たような心境なのだろう。そういった感情を持っている場合、隣国で戦争がおこるのは、自分たちの願望を満たしつつ、自分たちは痛手を追わないまま、正論を振り回せばよいので、都合がいい。

 

戦争は、あれやこれやの理屈や正義をつけてはじまって終わって評価されるが、実際のところは、人類の中にただ「戦争がしたい」という願望があるのだろう。

 

学部時代になんとなく読んだフロイトアインシュタインの書簡、「人はなぜ戦争をするのか」の中で、どうやったら戦争をなくすことができるかと問うアインシュタインに、フロイトは「それは不可能だ」と語る。フロイトいわく、人には生への欲動(エロス)と死への欲動(タナトス)があり、破壊衝動は人間が潜在的に持っているものであり、それゆえ戦争は起こると述べている。

 

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

 

 

昔から、争いには一定の神聖さが付与されてきた。自分の肌にインクを塗りつけて闘う昔の民族、騎士や武士。戦闘に権威が付与されるのは、それが単なる争いのみならず、人々を裁定するための象徴的な意味合いもあったからだと思う。

 

しかし、私たちは他の方法も知っている。選挙や法に基づく裁判、話し合い等々。

もし戦争のようなことになった場合、私は自らの欲動を認識しつつも、全力で戦争には反対したい。理由は単純で、私自身が死にたくないからだ。

礼文島

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礼文島暮らしも今日で一年が経過した。

 

今日一日は、東京から遊びに来た大学の同級生をフェリーターミナルへ送り届けるところからはじまった。そして仕事を終えた今、特に予定のない私は、Roy Hargroveのstrasbourg st. denisを聴きながら家でひとりビールの缶を開けるのだった。

 

友達はなかなか面白い奴だった。

彼は大学を卒業してから定職についておらず、実家で暮らしている。彼の最近までの「仕事」は、毎日PSPウイニングイレブンをやり、その経過をブログにアップすることだった。

ひさびさに会った、パーマをかけた彼は、不思議な安定感があった(ように私には見えた)。

 

いわゆる田舎であり、定職につかない人間に対して基本的には厳しい視線が注がれるこの島において、彼の存在は異質だった。だが、彼は私が知らない間に何かを見つけたのか、決して揺らぐことはなかった。

 

「俺、旅人になることに決めたわ」。彼はそう言い残して島を去っていった。そして私は決まり切った時間、決まり切った仕事のなかに再び埋没していった。

 

翻って、私の方はどうか。まったくもって不安定である。島に来てから特に、気分が天候に左右される。晴れの日の日中は人生に対する賛美歌を歌い、日が沈めば死を考える。私の人生の中の物語は、今どのあたりにあるのだろうか。

 

人生とは何か、仕事とは何か。その答えは未だ出ない。

雪山を歩くと...

先週、雪山を登っていたときのことだ。私は前を歩いていたアメリカ人の後ろについていた。もともとはそんなに難しくないはずのコースだったのが、一昨年の大嵐の倒木のせいで、迂回せざるをえなかった。そして、彼は急な角度の崖のような場所を登り始めた。あまりに急すぎて、彼がいなかったら私はその場所を登ろうという発想すらなかっただろう。私は彼について難なくその傾斜を登りきって山頂に到達した。

 

この出来事=物語は以後の私の内面に微妙な影響を与えた。出来事は、私の中で「障壁だと思っていたものは実は思い込みに過ぎず、思い切ってやればできることもある」という考えに一般化された。内面化した物語は、やがて私の行動を通して外部に影響を与えることになる。自分の内面的な物語と外の世界は繋がっている。ここに自分の内面的な物語を重視する理由がある。そもそも、自分は内面を通してでしか世界を見ることができない。

 

今の自分はそろそろ、内面に向き合わなければならない時期に差し掛かっているような気がする。

 

行動にはリスクが伴う。行動しないことにもやはりリスクが伴う。自分は変化を嫌うタイプではあるが、それ以上に退屈さを嫌うタイプでもある。私はその間をいったりきたりする。

 

自分がいかにして生きればよいのか、常に問い続けているが、一向に答えは出ない。しかし4年前と比べて、問いの内容が微妙に変化している。昔は「なぜ生きるのか」であったのが、今は「いかにして生き抜くか」になった。この違いは大きい。

 

とりとめのない文章になったが、この落書きが誰かに届けばいいと思う。

島にいた夢

2016年が終わった。私にとってはあっという間だった。

 

まるで、島にいたという長い夢を見ていたようだ。帰省した都会の空気は汚く、情報は多く、住み慣れたはずの街に強い違和感を抱いている。

 

島の生活、島の人々の価値観に同化したわけでも、賛同したわけでもない。彼らと私のものの見方は大きく異なっている。かといって、私は都会の人々が一般的に持つと信じられているのと同じ価値観を共有しているわけでもない。

 

自分の性格だろうか。都会を歩いていると、華やかな広告よりもむしろそこからこぼれ落ちてしまった人々に目がいく。それは浮浪者であったり、時代に乗り遅れた独居老人であったりする。彼らのなんとも言えない表情が私にはわかる。

 

それは、本当に彼らの声なのだろうか?おそらく、違う。

結局のところ、他人の考えていること、感じていることなどわからない。私は彼らの表情を見て、自分自身の深層から聞こえる生の声を聞いている。結局、私は、他人を媒介とした自分自身の意識の中に住んでいるだけだ。

 

それは独りよがりとは違う。独りよがりの精神的な引きこもり世界には他人が介在していない。それゆえに寒々しい、どこまでいっても空虚な世界が広がっているだけだ。その先には何もない。一方で、他人を介在した自分自身の意識世界には、生の血が通っている。温もり、声、呼吸がある。

 

自分の住み慣れた街を歩き、生暖かい夜の風を感じながら、私は果てしない孤独を覚えた。『社会』から追放されたような気になった。だが、それは生への熱望をも伴っていた。

 

「死んだように生きたくはない」それが20歳の時の自分の口癖だった。過去の自分に自らの存在の意味を問われている今、24歳の私は、その問いかけに答える覚悟ができている。死ぬ一秒前まで、自分は生きることを求め続けていきたい。不毛な被害妄想に陥ることなく、追放されてしまった苦しみや悲しみを生きることへの情熱へと転化したい。

そう決意した2017年の初日であった。

 

 

稚内

長い12月も終わりに近づいている。私は今、礼文島での仕事を納め、実家に帰るために稚内のホテルに滞在している(稚内には空港がある)。気がつけばもう、3ヶ月以上島を出ていなかった。

 

ホテルへ向かう途中、久々に乗るタクシーに戸惑った。金を払ってサービスを受ける。このことにとてつもない疲労と緊張を感じた。礼文島にいた頃は早く都会に戻りたかったのに、都会の空気に触れた途端、自分は早くも理想化された島に帰りたいと願った。

 

稚内のフェリーターミナルにつくといつも、島での生活は夢だったのではないかと思う。それくらい現実感がない。島には裁判所も税務署もない(郵便局やコンビニはあるが)。ホテルで自分の鏡を見ると、髪が伸び放題だったことに気がつき、慌てて美容院を予約する。自分の服装が野暮ったいことにも気がつき、もっと良い服を持ってこればよかったと後悔する。

 

子供の頃から、泊まったホテルの部屋にあるメモ帳に何気ないメッセージを残しておくという変な癖がある。ベッドメイキングの人がそれを見て何か想像するところを勝手に想像するのだ。先ほど、ベッド横に置かれたメモ帳には「then,where should I go ?」と書き残した。それは私自身の心の叫びに違いない。

 

次、自分はどこへ向かえばいい?答えは未だ、わからない。