午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

23歳の終わり

今日も、礼文島には雪が降っている。11月としては異例の寒さであるらしい。最高気温がマイナス10度を下回ることもあった。

 

11月が始まるとき、隣の家に住んでいるおばあさんが「11月は一番嫌いだ」とぼやいていた。寒いし、薄暗い。12月以降の雪が降ってしまったあとよりも(気温がプラスにならないためにシーズン中溶けない雪のことを「根雪」という)、むしろ11月の方が寒い、と島の人は一様に言う。

 

日の出は7時近く、日没は4時前である。おばあさんの予言どおり、11月は地獄のように感じた。おまけに、気象庁のデータを見た限りでは、去年の11月より10度近く寒く、平均日照時間は1/4の1時間ほどだ。昨日本当に久々に青空を見た時、私は深く感動した。

 

23歳も今日で終わる。「23歳」は人工的な区分であるが、それを潜在的であれ意識して行動することで、「23歳」は現実のものとして現れる。区切りのもつ魔術的な(物語的な)力を今の私は信じている。

 

私の23歳は、まさに11月の礼文島のように苦しいものであった(あるいは11月の礼文島が私の回想に大きな影響を与えている可能性は十分にある)。それは人生の模索期、やっと社会的に「生まれた」自分がこの広い「社会」をどう生き抜いていくか、時には鏡を見ながら、あるときには未来を、過去を、別の可能性を、他人の言動の中にうつる自分自身を、自然を、そして宇宙を見上げながら考えていた。自分を規定する「物語」と時には対立し、書き換えようと試み、乗り越えようとすることで、何とか前に進もうとした。

私の22-23歳は、アフリカはスーダンのシャリフハサバッラ村で星空を見たことで「超克する近代人」の無意味さを悟ってから、礼文島で生活することで結局は無意味さの連鎖から自分を救い出すのは何かを「造る」ことだけなのだと前を向く方向に回帰していく過程であった。

 

24歳がどのようになるかはわからない。ただ、私にできることは、生きること、それだけだ。

美術館のない島で

大人になった少年は、淡い美の光を求めてどこまでも走り続けていた。彼はかつて世界中の美術館を巡った後、都会を飛び出して島に移り住んだのだ。

 

彼の突飛な行動を、あざ笑っている人もいた。以前の彼が持っていた地位や名誉を羨んでいた人間たちは、いなくなった彼の座席を指して得意げに様々なことを語った。しかし彼はあまりにも美を追い求めるのに夢中だったので、そんなことには気がまわらなかった。彼は、渡り鳥のように、自らの感性の赴くままに自由な精神で様々な場所を旅した。

 

ある朝、雲から光が差していた。大人になった少年は、赤紫色の景色のあまりの美しさに息を呑んだ。その暖かみに心癒されるのと同時に、癒されなかったものに思いを馳せた。自分が知った最新の秘密をポケットにしまって、彼は新たな美を求めて冒険の旅へと飛び立っていった。

 

 

初雪、朝の薄明光線、ミイラ

礼文はもう雪が降っている。現在の気温は3度だ。朝、出勤している時、利尻山に薄明光線が降り注いでいた。厚い雲の端から光が差している光景は、この世のものとは思えない。

ハロウィンにちなんで、今日はミイラの格好をして子供にお菓子をあげていた。

 

華やかな夏、明媚な秋はあっという間に過ぎ去り、気がつけば長くどんよりした冬の気配がすぐそこまで来ている(本州の感覚で言えばもうとうの昔に冬になっている)。

 

気温が下がると、気分も滅入ってくる。自分自身に対する問いかけ、なぜ生きるのかという深い疑念が頭を過ぎる。一日一日、確実に死に向かっている気がする。この世は私にとって、解き難いパズルである。

 

これまで、ツァラトゥストラ的な生き方を否定して来た。日々何物かを乗り越えていたら、疲れてしまうと思ったからだ。存在することこそが、我々の義務だと思っていた。だが、そこで大きな壁にぶち当たってしまった。無気力で、中途半端というのがその壁の名前だ。

 

私には、本当に私という人間がわからない。昨日、一昨日、...生まれた日の自分が輪切りになったイカのように無数に存在していて、ひもでつながっている。私の過去や未来が、私に対してあれこれと要求する。私はどの声を聞けばよいのかわからない。それらを裁定するのが私の役割なのだろうが、生易しいことではない。

 

ただひとつわかっているのは、生きることが、生命の義務であることだ。死ぬ直前まで生きる。そのためには無数の決断をしなければならないし、勝負を仕掛け続けなければならない。それは既存の社会の価値観に対してかもしれないし、あるいはもっと別なものに対してなのかもしれない。

 

島で、自分の存在について考えを巡らす。 

 

人生は音楽とともに

小学校の学芸会練習も佳境に入ってきた。島に来て、子供たちの歌に合わせてピアノを弾く生活ももう少しで終わりだ。

 

仕事の合間に、カフェでマスターと話をする。「人生、どこで妥協できるかが大事」。70歳を過ぎた彼は言う。「まだまだ妥協はできません」。23歳の私はそう答える。

 

放課後、子供達が帰った後も学校に残ってピアノの練習をしていた。そして家に帰り、オスカー・ピーターソンジョー・パスの演奏を聴きながらコーヒーを飲む。ライブやジャムセッションは、聞いているだけで胸が躍る。音が生起するその瞬間が楽しい。まさに人生そのものだ。

 

アフリカのとある部族の村に泊まった時のことを思い出す。火を囲んで、剣を持って舞う。ギターを弾く。太鼓を叩く。そういえばあの日も星空だった。砂漠から見えた満点の星空と、礼文島の満点の星空はまた違う。けれども、生命を讃えているのは同じだ。

 

時折人生と向き合いながら、今日もひたすら踊り続ける。

天使の梯子 "Jacob's ladder"

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礼文島は寒い。今日の最高気温は7度だ。日没は早く、日の出は遅い。ついに冬の気配が忍び寄ってきたのだ。

そんなわけで、この連休も家を出ることがなく、ストーブの前でじっとしていた。しかしせっかく礼文にいるのだからと思って、スカイ岬まで車を出して日没を見届けにいった。

 

車窓から薄明光線(天使の梯子)が見えた。日没に間に合うように、車を加速させる。スカイ岬にたどり着いた頃には日没間近だったが、それでも十分に優しい光と波打つ海を見ることができた。

 

海を見ながら、自分の人生について考える。自分は何者か?と問いかける。北の果ての島は、考える時間だけはたっぷりある。

 

人間は、寿命の直前まで人間をやらなければならないのだと、隣の家に住むおばあちゃんとお茶を飲み、話をしながら思う。若さゆえかもしれないが、自分の自意識に悩まされる。

 

好む好まざるに関わらず、無理やりステージ上に立たされて踊っている。常に数秒後の筋書きを考えなければならない。そのための道具はいくつかあるのだが、それらはいまいち信用の置けないものだ。だから結局、自分の道具を発明しようともがくことになる。やっと何かをつかみかけたころに、人生は終わってしまうのだろうか。

 

秋の礼文島、あるいは満天の星空

子供たちとの学芸会の練習を終えて、家に帰ってきた。学芸会では、ピアノ伴奏を引き受けていた。車を降りると、あまりにも星空がきれいだったので、再び車に乗って澄海(すかい)岬までドライブした。

岬のベンチに寝転がって空を眺めた。見渡す限り満天の星空である。海側は遮るものがなにもない。星に囲まれて、自分が北の果ての島にいることをはじめて理解した。

 

ふとしたきっかけで、子供にショパンの『子犬のワルツ』を教えた。島にピアノを弾ける人がほとんどいないので、ピアノが弾けるというだけで重宝される。まるでガルシア・マルケス百年の孤独』のピエトロ・クレスピみたいだ。その後、子供の母親が私に鮭といくらをくれた。

 

秋の空気はとても澄んでいる。星空を見ると、自分が生きていることを自覚する。その一瞬の感動は、一生かかっても他人には伝えきれないに違いない。