午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

礼文島の夏の終わり

礼文島の華やかな夏はあっという間に過ぎ去り、気がつけば秋の空模様だ。あれほど多かった観光客の姿も減り、島の一番の特産物であるウニ漁もほぼ終わった。

 

夏の間、島の人たちはここぞとばかりに一生懸命働く。一番のかき入れ時なのだ。夏の間は、島じゅうが祭りの状態といっても言い過ぎではないのかもしれない。花火大会も終わり、気がつけば肌寒い。今、やっと、一息ついて島に来てから今までのことを振り返る余裕ができた。夏の間は、楽しむことに精一杯だった。

 

この島で今日も、全力で笑って、感動して、今を生きていた。人生は、寄り道するから楽しい。香深(カフカ)から船泊へ車を運転しながら、ぼんやりと秋の少しだけ荒れた灰色の海を見ていた。

 

夏の礼文島まとめ:

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秋の島

音楽をかけて礼文島を海岸線沿いにドライブしながら、「今、自分は人生の何ページ目にいるのだろう」とふと考える。3ページ目だろうか、それとも30ページ目か。どの部分にしおりが挟まっているのかはわからない。

 

島の空模様はすっかり秋だ。澄んだ真っ青の海の上に、どこまでも秋の雲が広がっている。夜には満天の星空が見える。私ひとりにはもったいないくらいだ。華やかな島の夏が終わって、喪失感を隠せない。美しいものを見ると、その感動の反動か、世俗のものの何もかもが虚しくなってしまう。

傾いた午後の日差しに、無限の孤独の匂いをかぎつける。

 

自分はこの島で何をつかみ、何をつかめないのか。

とろなぎ

突然だが、「とろなぎ」という言葉をご存知だろうか。「とろなぎ」とは礼文島の言葉で、海面が鏡になるくらい穏やかで波のない状態であるらしい。「とろ」は「とても」、「なぎ」は「しけ」の反対と考えてよさそうだ。

 

この言葉を、島の人に聞いて知った。仕事で面倒を見ている島の小学生の子供達を引率しているときのことだ。私たちは夏休みの子供たちを浜辺に連れて行って遊ばせた。海はきらめき、自然は豊かで、その美しさは言葉にできないほどだ。日差しは強い。私たちは子供たちと談笑し、声をあげて笑い、空はどこまでも青かった。

 

仕事後、いつものカフェに行くと、縄文土器の発掘調査で島を訪れている外国人たちと会った。最近、島で英語を話さない日はない。彼らの考古学や人類学の話も、聞いていて飽きることはない。

 

夏休みは今の仕事では最繁忙期であり、体力的には辛い部分もあった。それにもかかわらず、私は今島の大自然に囲まれて、確かな幸せの中にいた。

 

 

礼文島まとめ:

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礼文島

久々に、スコトン岬のカフェに来てパソコンを開いた。相変わらず、目の前の岬に観光客が定期的にバスで運ばれてくる。今日スコトン岬に来た人たちは気の毒だと思う。今日の礼文島は濃い霧の中にあり、景色など全く見えない。パンフレットなどに掲載された青を期待した人々が今日出会うのは、ただただ白い景色である(現地の人々は「ガスる」という)。岬をバックに記念撮影するように置かれたカメラもひな壇も、全く意味をなさない。人工物を見に行くのとは違い、自然を見るとき、最も重要なのは天気である。

 

先日積丹半島に行ったとき、「積丹ブルー」を見ることができなかった。曇っていたからだ。天気によって、同じ場所でも全く異なった印象を与える。ちょうど、自分の気分や感情によって、見える景色が全く変わってしまうように。

 

 

礼文島に来て、4ヶ月が過ぎた。こちらの夏はとても過ごしやすい。そろそろ、礼文島の次はどこへ行こうかと頭の片隅で考える。

 

どこまでも自由に、流されるように生きたい。しかし現実の重みは、どうやら当分の間私にそれを許さないようだ。特にこれといってスキルの無い平凡な私は、ただぼんやりと霧を眺めて、それを自らの人生に重ね合わせる安直な誘惑としばらく闘っていた。

 

礼文島まとめ:

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札幌

礼文島から都会に帰った瞬間、今までの生活をふと思い出す。

 

礼文島から利尻島へ渡り、寿司を食べ、利尻空港から札幌へ飛んだ。飛行機で雲の上へ上がるたびに自分自身を振り返る。今まで保留にしていた、「これからどう生きていくのか」という重大な問いかけが姿を表す。都会の物理法則が田舎で通じないのと同様、田舎の物理法則は都会では通じない。

 

あてもなく札幌をさまよい、カフェで目的もなく時間を潰す。北海道大学のキャンパスを歩いて、学生を横目に、大学図書館とカフェと家の往復だった自分のニート生活を思い出す。

 

都会は情報過多だ。島暮らしに慣れていると、人の多さに参ってしまう。なぜこんなに狭いところに人が密集しているのか理解に苦しむ。自分自身も数ヶ月前は東京に住んでいたことなどすっかり忘れている。自分は何をしたいのか、どう生きればよいのか、まったくわからない。ただ今は、必死に礼文島での生活に食らいついていくしか無い。

 

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礼文島生活の豊かさ

 東京から日本放浪を経て、礼文島に移住してからちょうど3ヶ月が経った。その間少しずつ現地での人間関係も出来始め、隣の家のおばあさんに海産物や野菜のおすそ分けをされたり、カフェのマスターにボタンエビを頂いたりするようになった。

 

夏の礼文は最高だ。まず、涼しい。本州のような灼熱地獄はここには無い。緑は生い茂っている。映画を見たくなれば、シアタールームがあるアメリカ人の家へ遊びにいく。ここではすべては助け合いだ。おそらく、都会のように残金ゼロになった途端に路頭に迷い、冷たくあしらわれることはないだろう(実際経験したことがないからわからないが)。

 

都会でパニック障害や各種精神病を自称する人は、礼文の澄んだ自然に触れればあっという間に治ってしまうだろう。強迫症的な都会のバイオリズムと過剰な記号は、ここには無い。ウニなどの海産物は当たり前だがあまりにも美味い。

 

来週は、利尻空港から飛行機で札幌へ行き、そのまま小樽の友人宅へ向かう。短いバカンスだ。

 

礼文島生活のリアルを伝える移住ブログやってます↓

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夏の礼文島まとめ:

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旅と生活(2)

日本最北限、礼文島のスコトン岬にあるカフェに来るたび、なぜかブログの記事を書きたくなる。今日は雨がひどく、海は時化ている。

 

目の前では相変わらず、色とりどりのカッパをきたツアーの観光客が慌ただしくスコトン岬で写真を撮っては去って行く。なぜそこまでして、人は旅をしたがるのだろう。観光は今や一大産業で、経済のうちの大部分を占めている地域も数多い。

 

たかが数日の旅に、時に人は命をかける。旅や観光についての人の姿勢を見ていくと、その奥に潜む人の生活、そして人生についても迫ることができるのかもしれない。

 

自分は大学を出た後放浪して、礼文島で生活を始めたが、これが大多数が進む「正解」の道でないことは間違いない。大学を出て、私は自分の「自由」に戸惑った。今もそれを持て余しているが、少しずつその「自由」との折り合いもついてきた気がしないでもない。

 

少しでも景色から目をそらすと、観光客は消えてしまう。これからどこへいこうか。そんなことばかりを考えている。