午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

礼文島生活の豊かさ

 東京から日本放浪を経て、礼文島に移住してからちょうど3ヶ月が経った。その間少しずつ現地での人間関係も出来始め、隣の家のおばあさんに海産物や野菜のおすそ分けをされたり、カフェのマスターにボタンエビを頂いたりするようになった。

 

夏の礼文は最高だ。まず、涼しい。本州のような灼熱地獄はここには無い。緑は生い茂っている。映画を見たくなれば、シアタールームがあるアメリカ人の家へ遊びにいく。ここではすべては助け合いだ。おそらく、都会のように残金ゼロになった途端に路頭に迷い、冷たくあしらわれることはないだろう(実際経験したことがないからわからないが)。

 

都会でパニック障害や各種精神病を自称する人は、礼文の澄んだ自然に触れればあっという間に治ってしまうだろう。強迫症的な都会のバイオリズムと過剰な記号は、ここには無い。ウニなどの海産物は当たり前だがあまりにも美味い。

 

来週は、利尻空港から飛行機で札幌へ行き、そのまま小樽の友人宅へ向かう。短いバカンスだ。

 

礼文島生活のリアルを伝える移住ブログやってます↓

cookingrebun.hatenablog.com

 

夏の礼文島まとめ:

matome.naver.jp

 

旅と生活(2)

日本最北限、礼文島のスコトン岬にあるカフェに来るたび、なぜかブログの記事を書きたくなる。今日は雨がひどく、海は時化ている。

 

目の前では相変わらず、色とりどりのカッパをきたツアーの観光客が慌ただしくスコトン岬で写真を撮っては去って行く。なぜそこまでして、人は旅をしたがるのだろう。観光は今や一大産業で、経済のうちの大部分を占めている地域も数多い。

 

たかが数日の旅に、時に人は命をかける。旅や観光についての人の姿勢を見ていくと、その奥に潜む人の生活、そして人生についても迫ることができるのかもしれない。

 

自分は大学を出た後放浪して、礼文島で生活を始めたが、これが大多数が進む「正解」の道でないことは間違いない。大学を出て、私は自分の「自由」に戸惑った。今もそれを持て余しているが、少しずつその「自由」との折り合いもついてきた気がしないでもない。

 

少しでも景色から目をそらすと、観光客は消えてしまう。これからどこへいこうか。そんなことばかりを考えている。

 

旅と生活

相変わらず、礼文島のスコトン岬をぼんやりと眺めながら、カフェでコーヒーを飲んでいる。

窓から何時間も眺めていると、礼文島を訪れているツアー客が定期的にバスで下の方から運ばれ、岬の前で記念撮影をして、また帰っていく。彼らはみな楽しそうに、非日常を楽しんでいる。窓ガラスのこちら側にいる私は、礼文島の日常の中にいる。全く同じ場所に、ふたつの時間が重なり合う。

 

日常と非日常、旅と生活は切り離して考えるべきものかどうか、私にはわからない。しかし、切り離して考えることはできる。かつて、私は旅ばかりしていた。今思えば、生活が纏う「労苦」「倦怠」そして「責任」などから逃れたかったのだ。私はかもめのように「生活」のまわりを旋回し、そして最後、そこに帰らなければならないことを知った。結局、「生活」を受け入れるほかはなく、立ち向かうしか方法はない、と知るのに何年もかかった。地球の果て、アフリカの奥地まで逃げ込んでも、自分の「意識」は自分にくっついてくる。「最北の地」礼文島に来て改めて思ったが、そもそも、丸い地球に果てなどない。

 

気がつけば日は傾き、岬で子供達が遊んでいる。どうやら私が今、仕事で面倒を見ている地元の子供達と鉢合わせたようだ。

これからどうするのか。悩みは尽きない。

 

礼文島

様々な力に流し流され、礼文島に来てから3週間が過ぎた。

稚内からフェリーで上陸した日、4月であるにもかかわらず結構な雪が降っていたのは今でも記憶に深く刻まれている。

 

今、日本最北限の地、スコトン岬にあるカフェにいる。かかっている曲は、アジカンサカナクションエルレなど、私が高校時代に聞いていた曲ばかりだ。見た目からも察して、おそらくマスターは同年代なのだろう。目の前にはトド島、そして海が見える。かもめがゆっくり飛んでいる。私は海の全く見えない地域で育ったが、こちらに来て、毎日海の表情が違うことを知った。

 

日々は慌ただしく過ぎる。気がつけばGWだ。明後日再び東京へ行くが、きっとまた、島に行く前には気がつかなかった東京の素顔に気がつくのだろう。

この島は自然が美しすぎて、どんなカメラ初心者でもカメラマンにさせてくれる。そして、カメラでは目の前の自然の美しさの何百分の一も捉えられない。

 

これから観光の季節になるらしい。非常に楽しみだ。

名古屋

日本放浪を始めてからしばらく経った。その間、南は長崎、北は仙台まで各地を知人のつてをたどってあてもなく放浪していた。旅の途中に浜松のアート系NPOで働いたりもした。そして社会人になって1年が過ぎた4月から、仕事で北海道の礼文島に住むことになった。その間の1年、自分はすごく変わったのかもしれないし、全く変化していないのかも知れない。

 

日本中を旅しながら、去年の今頃アフリカはスーダンの奥地で出会った村の星空の意味を考え続けてきた。存在することそのものの意味、価値をいかに作品にして表現するのかが自分の課題だった。道中、日本は山と海、そして神話の国だと改めて感じた。世界中を放浪した後の日本旅は、毎日が新鮮で刺激的だった。

 

今日、名古屋城の夜桜を見て、私は名古屋に別れを告げた。この、自らの好奇心に素直に従う人生がいつまで続くのかはわからない。それでも私は再び冒険に出ようと思う。

 

私とトム

今、紆余曲折を経て名古屋で働いている。

 

自宅から勤務先へと通勤する際、毎日自宅付近の駅から市街地まで「トム」と一緒になる。「トム」は私が心の中で他人に勝手につけた名前だ。トムの素性は全く知らない。彼は一目見てダウン症だとわかる風貌をしている。

 

日常生活のストレスで潰れそうになったり、人生の喜びをかみしめたりしながら駅で電車を待っている。しかし感情が日によってどれほど揺れ動いていても、トムの目は毎日同じ方向をしっかりと見据えて、落ち着き払っている。私は地下鉄の乗り換えを遅れないようにと早足で動くのに、トムはいつのまにか自分の知らないルートを使って先に地下鉄の電車に乗っている。私が地下鉄の車両に飛び乗る頃に、彼は涼しい顔でカルピスを飲んでいる。

 

ある時、自分の人生に疲れ果て、俯きがちに家から駅まで歩いて行った。その日トムはスーツを着ていた。堂々たる、一流のビジネスマンのような風貌だ。彼は電車に乗っている間じゅう、常にネクタイの位置を気にしながら黒くなった窓に映る自分を見ていた。まるでこれからビジネス上の強敵とテーブル越しに闘うのだとでも言うように。

 

忙しいと、自分のまわりにいる人たちが音を発する動植物に見えてくる。仕事終わりに疲れてカフェで座っていると、前にいる3人組の女性が明るいオレンジ色、緑色、白色の服を着ておしゃべりに昂じているのが目に入る。人参、ブロッコリー、カリフラワーが大げさな表情を作って喚いているのが遠目からもわかる。疲れていると聞こえて来る言葉から意味が剥がれ落ちて、音だけが残る。それがとても奇妙に映る。

 

自然と私の視線は、おしゃべりな野菜たちよりもトムの方に行くようになった。そしていつしかトムは、地下鉄で私を見つけると、車内放送を復唱しながら私のそばによってくるようになった。

 

動く私と、動かないトム。二つの視線が交差するのは、自分たちが独りだからだろうか。通勤中に、空想を膨らましている。

仙台

仙台に来て数日が経った。私は今、東北大学附属図書館の近くにあるカフェ『モーツアルト』でこの文章を書いている。しかし店名とは異なり、今、カフェでかかっているのはショパンの24曲のプレリュードである。現在『雨だれ』に差し掛かったところだ。ちょうど、窓の外を見ても、冷たい雨が秋めいたキャンプ場のような広大なキャンパスに降り注いでいる。

 

京都にいた頃はまだ紅葉の初めだったが、仙台市街近郊の作並や定義、青葉通の木々はすでに紅葉の盛りである。私自身、仙台に旅行に来るのは4度目なので、自分から主体的に観光する気にもならず、かといって特に何もすることが思い浮かばないまま、友人と会う以外は無為な日々を送っている。無気力な身体と精神を引きずって、大学図書館に置かれた雑誌を拾い読みするのが最近の趣味だ。興味の赴くままに適当に流し読みして気だるい時間を過ごす。

 

その中でも特に気になったのが東日本大震災の調査である。仙台空港から仙台駅へと電車で移動した際、車窓から仮設住宅が見えたときは、「あ、まだ仮設ってあるんだ」と何気なく思ったが、震災直後に学生ボランティアに行った自身の記憶を想起した程度で、その時は気にとめなかった。しかし昨日の朝食時に、『河北新報(仙台の地方紙)』で家賃が無料である仮設住宅から経済的な理由で出られない多くの人々がいることを指摘する記事を読んで以来、地下鉄の新路線を建設し、活況を呈している仙台の街を見ながらも、震災のことが心のどこかで引っかかっていた。

 

雨の日にはコーヒーがよく似合う。私は目を閉じて、カフェのスピーカーから流れるショパンの『アンダンテ・スピアナート』に耳を傾けながら、憂鬱な午後の気分を愉しむことにした。